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新近江名所図会

新近江名所圖會 第430回 野洲川の氾濫とタニシ ―守山市笠原町蜊江(つぶえ)神社-

守山市

 守山市笠原町で新しく発掘調査が始まりました。事前の試掘調査によると、この付近には湿地性の堆積層の上に古墳時代と古代・中世の遺跡が分布しているようです。地元の方によると水はけのよくない土地だったようで、このことは試掘調査の所見ともよく符合します。そして、天井川化した旧野洲川南流に隣接していたため、堤防の決壊による水害が何度も発生した土地柄でもありました。笠原集落にある「蜊江(つぶえ)神社」にはこうした土地柄を象徴するような伝承が残されています。

【おすすめポイント】

 蜊江神社は、奈良時代の作とされる天部形立像や(腐朽のため詳細不明だが吉祥天像と推定されている)、鎌倉時代の記年のある鰐口をはじめとする県市指定の文化財を保有する古社です(写真1)。社地内外に3棟の仏堂が残されていて、神仏習合の名残もみられます。

写真1 蜊江神社

 祭神は「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」となっていますが、社名は享保6年(1721年)7月に発生した洪水災害に由来します。堤防の決壊によりご神体が流されそうになりましたが、多数のタニシの付着した神輿がうまい具合に社殿前に止まり、ご神体の流失を食い止めたそうです。これをタニシのご加護として、境内に池を掘り、タニシを放流したのが社名の由来とされています(写真2)。タニシは「ツブ」と呼ばれたようです。しかし境内の池は、残念ながら野洲川放水路の通水のあと水が枯れてしまいました(写真3)。

写真2 境内のタニシ
写真3 干上がった御蜊池

 タニシを神の使いとする言い伝えは、本シリーズ第295回「出庭神社」でも紹介されているように全国各地に見られるようです。田や水路に生息するタニシは田の水を保証してくれる存在と見られていたのでしょうか。蜊江神社も水害以来雨乞いの神様として信仰されてきました。

【周辺のおすすめ情報】

 放水路が完成するまでの野洲川は、氾濫を繰り返す暴れ川でした。蜊江神社裏の堤防には野洲川改修公園があり、昭和28年(1953年)の大水害をへて昭和54年(1979年)に放水路が完成通水したことを伝えています。またその少し上流にも水災記念碑があり、こちらは大正2年(1913年)の水害を伝えています。笠原町の下流側にある幸津川町の浄宗寺門前には、明治29年(1896年)に起きた大洪水の高水位を記す記念碑があります。この滋賀県最悪の水害は南郷洗堰の建設計画を促す一因となりました。このように、笠原町・幸津川町では、なんと享保6年・明治29年・大正2年・昭和28年の4回にわたる大水害の記念碑が確認できました。

 水は害をなすだけではありません。守山市は旧野洲川の豊富な伏流水を利用した農業の盛んな土地でもあります。地元JAの直売スーパー「おうみんち」は、豊富な品ぞろえ地場産野菜を販売しているほか、初夏には「もりやまメロン」を販売しています。野菜を中心にしたバイキングレストランも併設されています。また、この近くの河西いちご園では生食のイチゴだけでなく、イチゴスイーツの持ち帰り&イートインも楽しめます。

【アクセス】

 自家用車:琵琶湖大橋取付け道路(県道11号)の荒見町交差点から北東(野洲川の方向)へ1400m、右折してすぐ。

 公共交通機関:JR守山駅から堅田駅・木の浜方面行きに乗車、守山北中学校前下車。そこから北東(野洲川の方向)へ徒歩5分。

(伊庭 功 / 調査課)

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