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新近江名所図会

新近江名所圖會 第448回 御幸山「記念碑」―日本最古級の戦争記念碑

大津市

三井寺観音堂へ 

 湖南の名刹-三井寺観音堂は大津市街地の西側丘陵上にあります。京阪石坂線三井寺駅を下車して琵琶湖疏水沿いの道をすすむと,ふもとの入口にいたります。ここからは長い階段,それをのぼると,お堂が立ちならぶ境内が眼前にひろがります。振りかえると,眼下には琵琶湖を一望できます。まずは観音堂にお参りしましょう。そののち,境内の奥の方にある階段にむかいます。この階段をあがると,広場がひろがっています(写真1)。この広場からから琵琶湖側をながめると,湖のむこうにひろがる湖南平野の背景には三上山や湖南アルプスが,北に目をむけると八幡山もみえています。

写真1 観音堂上の「広場」

 ここまでのぼってくる人はすくなく,人影もまばらになります。この広場の奥にはさらに山道がつづきますが,それを登る人はほとんどいません。人気がないので少々心配になりますが,勇気をだして山道をさらにのぼっていきましょう。のぼりきると,また広場です。そして,広場の奥にはまたまた階段が・・・。階段下から見あげると巨大な石碑が起立しています(写真2)。以上,ながい前ふりでしたが,ようやく今回紹介する御幸山「記念碑」(以下「記念碑」と略します)まで行きつきました(辻川2014)

写真2 御幸山「記念碑」

御幸山「記念碑」

 この「記念碑」は,明治9・10年(1876・1877)の西南戦争に動員され,戦死した大津営所第九連隊の将卒を弔慰し,その功績をながく世につたえるために,連隊の将校以下有志がお金を出し合って,明治11年(1878)に建立されたものです。なお,こうした戦争―とくに近現代の戦争に関する記念碑をここでは「戦争記念碑」とよぶことにします。ちなみに、この「記念碑」は、日本における戦争記念碑として最古級の一例となります。

 「記念碑」の碑柱は全長約6.82mの尖頭方錐形(オベリスク型)で,台座は砲台をかたちどり,その下部には平面星形の基部が表現されています。この星形の平面形状は、五稜郭と類似することからわかるように、西洋の要塞の形状を表現しているのでしょう。碑柱の「記念碑」の文字は陸軍少将三好重臣の揮毫によります(なお,この碑銘については「紀念碑」とされることもありましたけれども,実物の碑銘をみるかぎり「記念碑」としかよめません。ですので,ここでは「記念碑」とよんでおきます)。さらに、台座両端部には,左側に当時の県令(現在の県知事)籠手田安定による弔辞が,また右側に陸軍少佐山口素臣による追悼の辞が刻されています。また、現状では確認できないのですが、建立当初の状況を示した記録をみると、基部の両側には2基の噴水があったことがわかります。

「記念碑」の系譜 

 以上のような特徴から「記念碑」の構造をまとめると、要塞の中に砲台があり、その上にオベリスク型碑が起立する形状といえ、それに「記念碑」の周囲には噴水まで備えることも付加できます。

 こうしたオベリスク型の碑は、近代よりも前の時代の日本列島には見いだすことはできません。その系譜をたどると、古代エジプトの石柱に到達します。その後、西欧諸国がそれらを自国に持ち込んだり、自国で模倣したりして記念碑として公共的な広場に設置するようになります。たとえば、パリのコンコルド広場の中央にオベリスク記念碑があり,その周辺に噴水が設置されています。御幸山「記念碑」にも噴水が設置されていたことは,西欧の公共空間における記念碑のあり方が日本へ受容され,明治初期の戦争記念碑(の一部)の祖形となったことをしめしています。

移築された「記念碑」  

 「記念碑」の建立場所ですが,上述したように現在は三井寺観音堂裏の山腹にあります。しかし,建立当初はこの場所ではなくて,三井寺観音堂のお堂が位置する広場よりもう一段上の平坦面上にあったことが建立当時の写真や絵図によってわかっています(写真3・図1)。ちなみに,現在の位置に移築された時期はながらく不明でした。しかし,近年の研究により、施設の老朽化と碑前の広場が手狭になったためという理由で昭和12年頃に現在地へ移築されたことがわかりました(橘2013・辻川2015B)。

写真3 観音堂と記念碑」の建立当初の位置
図1 観音堂上の「広場」

第九連隊と「記念碑」 

 そもそも「記念碑」は、なぜ三井寺観音堂に近いこの場所に建立されたのでしょうか。これには、この一帯にあった軍事施設や行政施設との関係が見逃せません。明治維新をむかえ、近代的な軍隊が創設されますが、明治5年に陸軍歩兵第9連隊が三井寺境内一帯に設営されました。現在の大津市役所・大津商業高校・大津歴史博物館付近一帯に兵舎群があり、皇子山陸上競技場一帯が練兵場となっていました。さらに、明治21年に現在の位置に滋賀県庁が竣工する以前には、明治2年に三井寺内の円満院に県庁(当時は大津県庁)も設置されていました。つまり、三井寺観音堂は、第9連隊の兵営に隣接した場所で、かつ県庁も所在する場所、いいかえれば公共的な空間として機能していたといえます。このような公共的な性格を有する場所に記念碑が建立されるのは、欧米でのオベリスク型記念碑と共通します。

「記念碑」の影響 

 近代日本での最古級の戦争記念碑である御幸山「記念碑」は、従来の石碑とはことなり、西欧諸国のオベリスク型記念碑を設置場所や噴水等諸施設とともに受容し、それを実際に建立した点で、戦争記念碑としては画期的な存在といえます。くわえて、その後に滋賀県内では戦争記念碑―いわゆる「忠魂碑」が続々と建立されますが、それらの大半をしめす碑柱の形状はまさにオベリスク型なのです。その理由は、オベリスク型で最古級の御幸山「記念碑」がその後の戦争記念碑の規範(モデル)となったからであるとかんがえています。

おわりに  

 いまはおとずれる人もすくない、忘れられたともみえる「記念碑」ではありますが、建立当時の人々には、できたての国民軍がはじめて巻きこまれた西南戦争での戦死者を弔慰する記念碑としても、見たこともない形状からも、最先端な記念碑だったのでしょう。

◆アクセス

京阪石坂線三井寺駅から徒歩約25分。

◆文献

橘尚彦(2013)「大津・御幸山の西南戦争「紀念碑」と戦死者慰霊祭について」(滋賀県平和祈念館平和学習講座(第2期)滋賀県の戦争遺跡 発表資料)

辻川哲朗(2014)「滋賀県における戦争記念碑の基礎的検討」『紀要27』公益財団法人滋賀県文化財保護協会

辻川哲朗(2015)「御幸山記念碑の移転時期について」『淡海文化財論叢第六輯』淡海文化財論叢刊行会

(辻川哲朗/資料活用課)  辻川哲朗の活動は【コチラ】

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