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新近江名所図会

新近江名所図會第219回 逃げる信長・追う長政「金ヶ崎の退口」の道(2)信長の隠れ岩

高島市

【前回(216回)に引きつづき、越前攻めのさいに織田信長を襲った事件―浅井長政の裏切りにより、越前からの命からがら逃げ伸びた逃避行の2回目をお話ししましょう。】

写真1 信長の隠れ岩
写真1 信長の隠れ岩

元亀元年(1570)4月、浅井長政の裏切りに合い、窮地に追い込まれた信長ですが、その体勢を立て直すためには何としてでも京に戻らなければなりません。湖北の道は長政の本拠地ですから、通ることができません。七里半越えは、浅井と同盟関係にある海津衆が押さえています。若狭から京に抜ける道には、武藤・武田という反信長勢力がいます。このような八方塞がりの状況で、一か八かの賭に出て選んだ道が朽木街道でした。朽木街道は、御食国(みけつくに)若狭の海産物を京に運ぶ道で鯖街道として親しまれています。「京は遠ても十八里」という言葉が、この街道の役割と、若狭と京との距離感をよく表しています。「京は遠いようだが、たった十八里の道のりだ。一晩歩けば京都に着くさ。」といったニュアンスでしょう。元亀元年(1570)4月の信長にとって、この十八里はどのように感じられたでしょうか。
この時、朽木を領していたのは朽木元綱でしたが、永禄11年(1568)段階で浅井長政に屈し、その支配下に組み入れられていました。従って、信長とは敵対する立場にあったはずです。このような状況下、信長は配下の松永久秀を元綱の元に派遣し、朽木谷を通らせてくれるよう説得します。この時、信長がどのような条件を提示したのかは判りませんが、結果は
「4月晦日、朽木越えをさせられ、朽木信濃守馳走を申し、京都に至って御人数打ち納められ・・」(『信長公記』)
と、信長が朽木谷を通ることを了解します。

■信長の隠れ岩
朽木谷を流れる安曇川の支流北川に朽木街道がぶつかるところの右岸に面白い伝承を持つ場所があります。「信長の隠れ岩」と呼ばれる巨巌です(写真1)。累々とした巌が重なり合うところに洞穴状の隙間があり(写真2)、ここ信長は潜み、松永久秀と朽木元綱の交渉の結果を固唾を呑みながら待った、と地元では伝えられています。これが本当の事かどうかは判りませんが、位置といい、その雰囲気といい、信長が潜んだという伝承が生まれても決しておかしくない所です。
不思議なことに、このような巨巌にはたいていの場合、磐座として神仏が祀られるものなのですが、ここにはその気配がありません。もしかすると、信長という強烈な個性を持つ武将のオーラが在地の神を駆逐してしまったのかも知れません。勿論想像ですが。
元綱の協力を得て信長は無事、京に帰ることができました。では、何故元綱は長政を裏切ったのでしょうか?それは、朽木家は小なりと雖も佐々木源氏に繋がる血筋と、代々室町将軍を軍事的に支える奉公衆をつとめる抜群の「格」が、そうさせたと考えています。しかも、朽木谷という要害にあり、将軍を支える軍事力を持っています。いざとなれば、長政と一戦交えることも覚悟したのではないでしょうか。

写真2 隠れ岩の奥
写真2 隠れ岩の奥

元綱は考えました。「信長は室町将軍の名代で越前に侵攻した。奉公衆として信長に味方する道理が朽木にはある。」と。詳しくは拙著『信長が見た近江-信長公記を歩く-』(サンライズ出版)という本に書いてあります。ぜひ読んでください。
さて、信長を朽木元網はいかに迎え入れたのか、次回をお楽しみに。(大沼芳幸)

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