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新近江名所図会

新近江名所圖会 第131回 鳥居川の立場-石山商店街界隈の今と昔-

大津市
(大津市鳥居川町)

旧東海道のうち、「瀬田唐橋」(第96回)「粟津の晴嵐」(第58回)についてはすでに紹介されていますが、今回はその間の大津市鳥居川町にある石山商店街界隈の今と昔について、ご紹介します。
「瀬田唐橋」の西詰の南側には、昔の面影を残す造りの民家が2軒並んでいます。そのうちの1軒の軒先には、「油」と記された看板が吊り下げられていて、かつて「油屋」であったことを物語っています。当時は、旅人目当てに様々なものを売る店が軒を連ねていたことでしょう。

現在の鳥居川
現在の鳥居川
鳥居川の立場跡
鳥居川の立場跡

京阪電車の線路を渡って旧東海道を西へしばらく進むと、鳥居川の交差点に至ります。交差点手前の右側に福井銀行があり、その右隣に古い門構えのお宅があります。このお宅は、旧東海道の立場(たてば)の本陣だった建物です。立場とは、宿場と宿場との間に設けられた休憩所のことで、その中でも大名や幕府の役人などが利用した施設にあたります。
その交差点を右に曲がった石山商店街の街並みは、昭和初年に東洋レーヨン(現在、東レ(株))が操業をはじめたことで賑わい、今に至っています。それまでは、街道沿いには人家もなく、土塁と松並木が残るだけの風景だったようです。明治42年の地図を見ても、人家は鳥居川の南端から西側の「瀬田唐橋」にかけてにあったようで、鳥居川からその北側の粟津にかけては、人家の印はありません。
また、旧東海道は、鳥居川を抜けると交差点で直角に西へ曲り、現在のJR石山駅の東側で再び、北へ曲がっています(旧東海道図PDF)。なぜ、ここでこのような変則的な曲がり方をしたのか、よくわかりませんが、確かに『江州膳所往還図』(1710年)などで、このようなルートが描かれています。城下町などでは、街道の視覚を遮るために、わざと直角に曲げた道が造られますが、この地点はそれには該当しません。当時、街道から琵琶湖側は湿地帯であったようですので、このような地形に制約されたのでしょうか。
最近、かつて賑わった石山商店街の街並みも変貌を遂げてきています。周辺に大型商業施設ができたことで、商店の数が減りシャッターを下ろしたままの店も多く、行き交う人もまばらで、すっかり寂しくなってきています。道の両側には、松並木ならぬ十数階建て以上のマンションが乱立しています。唯一、夏の土曜夜市には大勢の家族連れや若者達で賑わい、かつての商店街の活気を取り戻すのですが…。

一里山の一里塚
一里山の一里塚

話をもとに戻しましょう。江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成させた詳細な絵地図である『東海道分間延絵図』などを見てみると、鳥居川と粟津との間に描かれた松並木の標記の中に、小さな塚に大きな木が植えられた一里塚の標記があります。一里塚は街道の両側に一里ごとに土を盛り、榎や松を植えて道のりの目標としたものです。今となっては、その面影もなく正確な位置もわかりませんが、ひとつ手前の「一里山」と次の「平野神社(大津市松本)」との間の一里塚にあたります。
今回ご紹介した旧東海道の街並みや風情を思い描きながら、今一度、ゆっくり「瀬田唐橋」から「粟津の晴嵐」界隈を歩いてみてはいかがでしょうか。

周辺のおすすめ情報

一里山の立場跡
一里山の立場跡

「瀬田唐橋」を東に渡り、旧東海道を3kmほど進むと、「一里山」という町名が目に入ってきます。名前のとおり、JR瀬田駅の通称学園通りとの交差点の北東角に「一里塚」の跡を示す石碑が建てられています。大正期頃までは、小さな塚と大きな松の木が残っていたそうです。この「一里山」にも立場が設けられていました。国道1号線の月輪1丁目の交差点を東へ向かい、旧東海道との交差点の南西の角に「東海道立場跡」と記された石碑があります。正確な場所はわかりませんが、このあたりにも立場が設けられていました。

アクセス

【公共交通】京阪電車石山坂本線唐橋前駅下車徒歩5分
【自家用車】湖岸道路唐橋西詰より3分

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(吉田秀則)

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