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中野城 土橋と土塁

新近江名所図会

新近江名所圖会 第147回 蒲生氏ゆかりの地-中野城から音羽城・鎌掛城へ-

日野町
(蒲生郡日野町西大路・音羽・鎌掛)
中野城 土橋と土塁
中野城 土橋と土塁

戦国武将、蒲生氏郷の居城「中野城」は日野町にあります。
日野町西大路の日野川右岸に築かれた中野城は、別名日野城や蒲生城とも言われています。築城年代は諸説あって明確ではありませんが、蒲生氏三代の居城として16世紀前半頃に築かれました。城主は蒲生定秀・賢秀・氏郷の3代続き、本能寺の変の時、氏郷が信長の妻子らを迎え入れた城として伝えられています。その後氏郷が天正12年(1584)に伊勢松ヶ島に転封となった後、慶長年間(1596~1615)に廃城になっています。
中野城の形状は昭和40年(1965)の日野川ダムの造成で大きく改変され、現在では本丸跡の北側を中心に土橋や土塁・堀跡が残っています。ダム湖の湖畔に料理旅館があり、その駐車場の傍らに中野城跡の石碑があります。料理旅館とダム湖の間を抜けると鬱蒼とした木々の中に土橋の盛り上がりや水を湛えた堀跡が見えます。

音羽城 石碑
音羽城 石碑

中野城から南東へ2km程進んだ山あいに音羽城があります。音羽城は蒲生氏郷の四代前の貞秀によって応仁の乱(1467~77)の頃に築かれた山城です。貞秀の子高郷は中野の地へ移り、音羽城は甥の秀紀が守っていました。しかし、貞秀没後に不仲となり、大永2年(1522)に高郷に攻められて、籠城8ヶ月の後落城しました。築城から数えて50~60年での廃城です。

音羽城 井戸跡
音羽城 井戸跡

音羽城の縄張りは、江戸時代の絵図によれば、本丸から時計回りに二の丸、南丸と螺旋状に曲輪が続き、その外側に帯曲輪を配する構成です。南丸と東の帯曲輪の間の堀状の窪みは、大正期に大きく現状を変更した跡だと言われています。南丸の南東隅に残る井戸跡は、城主秀紀の奥方が入水したと伝わります。
蒲生氏の城はそのほか、音羽城からさらに南東方面にある鎌掛谷を望む急峻な山に城が築かれていました。音羽城の枝城として築かれた鎌掛城です。この城も南北朝時代に築かれ、16世紀終わり頃に廃城となりました。城は土塁に囲まれた本丸や二の丸などの山城部分と、麓の屋敷の部分に分かれてかれています。山城と屋敷地の部分が一体となって残り、中世城郭の構成がよくわかる城跡です。蒲生氏関係の城跡では唯一よく残されている遺構といえます。
蒲生氏関係の城は、内紛と氏郷の時代に日野を離れたことによって、いずれも廃城となりました。急峻な山城である鎌掛城を除いては、いずれも後世の改変をうけていて、戦国時代の栄枯盛衰を物語る遺跡といえるでしょう。

おすすめpoint

これは、20年くらい前の情報ですが、音羽城の東にある日渓溜の北斜面には、春には一面にワラビやツクシが生えていました。もしかすると地元の人たちの間ではよく知られていることなのかもしれませんが、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。

周辺のおすすめ情報

正法寺の藤
正法寺の藤

鎌掛谷のホンシャクナゲは、国の天然記念物になっているほど有名です。自生しているホンシャクナゲでは、日本で最も低地に生えているシャクナゲです。
でも、今回は正法寺の藤をおすすめします。鎌掛谷の入り口(シャクナゲ見学の駐車場があります)から県道を西に1.5kmほど行くと「藤の寺 正法寺」の看板と駐車場の入り口があります。花の時期が5月上旬から下旬で、鎌掛谷のホンシャクナゲと入れ替わりにたくさんの花を咲かせます。300年ほど前に普存禅師が植えたものだいわれ、1mほどの花房が垂れ下がります。これから見頃になる時期ですので、一度見に行ってみてはいかがでしょうか。

アクセス

【公共交通】
近江鉄道日野駅から近江鉄道バス平子・西明寺線 日野川ダム口下車徒歩15分
【自家用車】
名神高速八日市ICから国道307号線を南方向へ約35分

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(三宅 弘)

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