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野路一里塚

新近江名所図会

新近江名所圖会 第152回 草津市野路の東海道を歩く― 一里塚と萩の玉川―

草津市
(草津市野路)

これまで、旧東海道については、本コーナーで幾度となく取り上げてきました。大津市域では「瀬田唐橋」(第42回第58回)や、「粟津の晴嵐」(第96回)・「鳥居川の立場・一里山」(第131回)があり、草津市域では「草津宿・国史跡草津本陣」(第32回)、栗東市域では「目川立場・梅木立場」(第136回)、湖南市域では「石部宿」(第39回)、甲賀市域では「土山宿」(第102回)があります。今回は、草津市野路にある一里塚と玉川を紹介したいと思います。

草津市野路周辺は、平安時代や鎌倉時代には東海道の「野路宿」あるいは「野路驛」として栄えました。平成6年(1994)の立命館大学びわこ草津キャンパスの開設やそれに伴うJR琵琶湖線南草津駅の開業により、近年急速に発展してきていて、私が就職して滋賀県に引っ越してきた平成9年以降でも、その開発のスピードに驚くばかりです。しかし、賑やかな国道1号線とほぼ平行して走る旧東海道に一歩入ると、昔ながらの家並みもあり、静かなたたずまいを見せています。

草津市立矢倉小学校の南側辺りで、旧東海道は現在の国道1号線と交差していて、その部分の道筋は消滅していますが、国道1号線の南側に上北池公園という小さな公園があります。ここには、付近に「野路一里塚」があったことを示す看板や石碑があり、また、あずまやには、街道を描いた浮世絵が掲げられています。「一里塚」とは、街道の一里(約4km)ごとに両脇に塚(土盛)を築いてその上に榎や松を植えたものです。この「野路一里塚」は江戸日本橋から119里目に当たり、塚には松が植えられていたようです。しかし、明治14年(1881)に官地から払い下げられたときに塚は消滅してしまい、今ではその面影はありません。

野路一里塚
野路一里塚
野路一里塚の石碑
野路一里塚の石碑

「野路一里塚」から大津方面へ南下して850mほどいくと、「野路の玉川」にたどり着きます。「玉川」とは、玉のような清水を意味します。この野路にきれいな湧水があったことからそのように呼ばれ、「日本六玉川」の1つに数えられていました。萩の名所だったことから「萩の玉川」ともいわれ、紀行文や和歌に登場したり、名所絵図に描かれたりしました。現在では、小さな公園が整備されていて、看板や石碑・あづまやのほか、玉川を模した川や池も作られています。「野路一里塚」の上北池公園もそうですが、このように地元の方々により、名所が整備されて地域住民の憩いの場となっていることは、文化財行政に携わる者として、とても嬉しく思います。

野路の玉川
野路の玉川
復元された野路の玉川
復元された野路の玉川

おすすめポイント

清宗の胴塚
清宗の胴塚

「野路一里塚」と「野路の玉川」の間に、「平清宗の胴塚」と伝えられる宝篋印塔があります。平清宗(たいらのきよむね:1170-1185)は平安時代末期の武将であり、平宗盛の長子、平清盛の孫になります。『吾妻鏡』によれば、壇ノ浦の戦い(元暦2年〔1185〕)で父とともに捕虜となった清宗はここ野路で斬首され、京の六条河原で首がさらされたといいます。17歳の若さだったため、「悲劇の若武者」と言われています。
この石塔は当協会の産業医を務めていただいていた、遠藤勉先生のご自宅の庭の中にあります。命日の毎年6月21日には「清宗忌」が行われているそうです。

■野路一里塚

■野路の玉川

■平清宗の胴塚

(小島孝修)

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