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新近江名所図会

新近江名所圖会 第194回信長・佐和山城攻めの跡―物生山(むしやま)城―

彦根市

彦根市松原町に所在する松原内湖遺跡において、平成26(2014)年度の発掘調査で戦国期の堀切(ほりきり)・竪堀(たてぼり)が見つかり、平成27年1月25日に開催した現地説明会では、240人もの方々に見学いただきました。織田信長が元亀元年(1570)に行った佐和山城(第38回参照)攻めで築いたものとして、マスコミ各社で報道していただいたこともあって、事前問い合わせも多く、当日は山城ファン・信長ファンが多数いらっしゃいました。今回はこの時に築かれた砦の一つと考えられている物生山城を中心に、紹介したいと思います。
信長は、湖北の雄・浅井長政と元亀元年6月28日の姉川合戦で戦い、これを破りますが、この時、浅井氏家臣で佐和山城主だった磯野員昌(かずまさ)は、敵中突破して佐和山城へと戻り、立て籠もります。これを信長が取り囲んで籠城戦を仕掛けたのが、いわゆる「佐和山城攻め」と呼ばれる戦です。信長の家臣だった太田牛一が記した『信長公記(しんちょうこうき)』には、佐和山城を「鹿垣(ししがき)」で取り囲んで敵兵が逃亡できないようにしたうえ、その東西南北に砦を築いて監視した、と書かれています。その結果、翌2年2月に員昌は開城勧告に応じることとなり、信長は佐和山城を手に入れました。
4つの砦のうちの北の砦については、『嶋記録』に記されていることから、従来磯山城(米原町磯)があてられてきました。しかし、昭和61年(1986)に行われた滋賀県中世城郭分布調査で、佐和山城の北方の尾根伝いに城郭遺構が発見されたことにより、こちらが本来の北の城であると考えられ、「物生山城」と名付けられました。今回発掘調査で見つかった堀切・竪堀は、物生山城の西方に位置する小規模な尾根上に築かれていて、「鹿垣」の一部となる可能性が極めて高いと考えられます。
おすすめポイント
前置きが長くなりました。今回の取材ルートに沿って、「物生山越え」→物生山城→大洞弁財天という道のりでご案内したいと思います。通常は、逆のルート、すなわち佐和山丘陵西麓の大洞弁財天から登って丘陵の尾根上に出て、北進して物生山山頂へといたるルートがハイキングコースとされているようですが、今回は発掘調査現場から近い「物生山越え」から登ることとします。
「物生山越え」とは、物生山西方にある鞍部のことで、明治26年(1893)発行の地形図には大洞から北へ抜ける道が描かれています。現在も道の痕跡は残っていて、いくつかある平坦面には茶屋があったということも聞いています(写真1)。

写真1 物生山越
写真1 物生山越

「物生山越え」から近年作られた登山ルートを使って登っていくと、10分ほどで物生山山頂へと至ります。しかし、山城遺構はここにはありません。山頂の東方にやや低い頂部があり、こちらが主郭となります。さいわい、詳細な縄張図(図1)が公表されていますので、これをもとに説明したいと思います。物生山山頂から東に下って土橋を持つ堀切a・堀切bを越えると、小曲輪③→腰曲輪②→主郭①へと登っていくことができます。ここから、さらに北東方向に数段の平坦面が観察され、最下段には方形の窪みIがあります。南東方向の尾根にも、今回は見学していないのですが、細長い曲輪と土塁が築かれているようです。

図1 物生山城縄張図((『新修彦根市史第1巻』)
図1 物生山城縄張図((『新修彦根市史第1巻』)

これらの遺構は、長い年月の間に崩落・埋没を繰り返して、本来の形状からすればかなり崩れているとは思うのですが、それでもしっかり・きっちりと構築されていて、私のような中世城郭の超ビギナーでもはっきりと認識することができました。約450年の時を超えてこれらの遺構群を実体験することができるのは、ちょっとした感動すら覚えます(さらに詳細な解説は『新修彦根市史第1巻』をご参照ください)。
さて、物生山山頂へ戻り、今度は南下していきます。途中、尾根筋鞍部、ちょうど高圧線が東西方向に通過する下あたりで、堀切が築かれています。この堀切も土橋を持つもので、今回の発掘調査で見つかった堀切・竪堀とともに「鹿垣」を構成するのではないかと考えられます(写真2)。このあと、いくつかのアップダウンを繰り返すと、とある山頂で大洞弁財天方向と佐和山城方向に道が分かれます。佐和山城は目の前なのですが、時間的余裕と体力的余裕を考えて、大洞弁財天へと下山することとしました。

写真2 佐和山丘陵の堀切
写真2 佐和山丘陵の堀切

周辺のおすすめスポット
大洞弁財天は正確には長寿院という寺院です。彦根第4代藩主井伊直興が彦根城の鬼門の方角に建てたものです。これについては、改めてご紹介する機会を待ちたいと思います。ただし、その船着場については第179回で紹介しています。現在では住宅街の中に取り残されていますが、かつて松原内湖があったころの名残としてよく知られています。歴代藩主は、彦根城より船に乗ってここで下船し、大洞弁財天へとお参りしたということです。
「物生山越え」から大洞弁財天船着場まで、私(40代男子、運動不足気味)の脚で約1時間の行程でした。目安としていただければ幸いです。また、山道は部分的に雑草が生い茂ったりしていて、少し藪漕ぎをしないと進めないところもあります。それから、山を歩くのは晩秋から初春までがおススメです。なぜなら、暑い時期はヘビやスズメバチなどが出る可能性が高いからです。私は少し汗かきなので、天気さえよければ冬場がちょうど良い感じです。
(小島孝修)

アクセス(大洞弁財天まで)
【公共交通】彦根駅から北方向へ徒歩約20分
【自家用車】名神高速彦根I.C.より約15分

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