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新近江名所図会

新近江名所圖会 第306回 「鈎の陣所」跡と伝わる遺構―栗東市永正寺の土塁―

栗東市
図2 鈎陣所縄張図
図2 鈎陣所縄張図
図1 鈎の陣所平面図
図1 鈎の陣所平面図

「鈎」とはあまり見慣れない漢字ですが、「鉤」(かぎ)の異体字です。栗東市北部の平野部にはこの「鈎」の名がついた地域(上鈎・下鈎)があり、「まがり」と読みます。この漢字は屈曲部を持つ金属製品を指す意味を持っているため、このようにも読むようですが、地名の由来は『古事記』にみられる小俣王を祖とする勾君の一族が住んだことにちなむようです。今回はその鈎が日本史上に登場した、「鈎(まがり)の陣所」跡と伝わる遺構を紹介したいと思います。

「鈎の陣所」とは、長享元年(1487)7月に、室町幕府9代将軍足利義尚が近江の公家・寺社領荘園の回復を目指し、当地を支配して各荘園を押領していた六角高頼を征伐するために鈎においた陣所のことです。高頼が甲賀に逃げ込んだため、甲賀への入り口を押さえ、かつ東海道と東山道の分岐にほど近いこの鈎の地に陣所を設け、義尚自身が陣頭指揮を執ることになりました。図1は『栗東の歴史』第1巻(1988)に掲載されている鈎の陣所の平面図で、栗東市綣の大宝神社が所蔵する「寺内村由来図」を基にしたものです。周囲を堀で囲むだけでなく、主郭の周りは土塁と堀で囲んだうえ、その内部も土塁・堀で本丸や二之丸などと分けられている様子がわかります。規模も「東西百拾四間」「南北百弐拾間余」とありますので、一間=1.8mとすると、東西約205m、南北約216mとなり、非常に広大な敷地を有していたことになります。この戦いは、高頼側の甲賀の忍者(しのびのもの)によるゲリラ戦法に悩まされるなどして長期化し、義尚も長期間ここに滞在することになりました。家臣団や守護大名なども周辺に居を移し、また学問的行事や芸能的行事などもこの陣中で行われるようになって、一時は小幕府と化したようです。しかし、征伐開始から1年8ヶ月後の延徳元年(1489)3月、義尚が軍陣の疲労などにより陣中において25歳の若さで没したため、幕府軍は高頼征伐を中止し、鈎の地から撤退することになります。
この鈎の陣所跡と伝えられているのが、上鈎にある永正寺の周囲に残されている土塁・堀などの遺構です。『滋賀県中世城郭分布調査3』(滋賀県教育委員会1985)には、「鈎陣所」として、「土塁・堀跡が残り、遺物が散布する」と備考欄に記載されています。縄張り図も記載されていて、途切れながらも四周を巡る土塁が表現されています(図2)。また、『滋賀県遺跡地図』(滋賀県教育員会2014)にも、この地は「鈎の陣遺跡」として、「足利義尚本陣(真宝館)跡」と備考欄に記載されています。永正寺周囲の遺構群は、「史跡 足利義尚公陣所跡」として昭和35年(1960)に栗東市指定文化財に指定されています。なお、永正寺は真宗大谷派の寺院で、開基は永正年間(1504~1521)であり、鈎の陣所が撤収されたのちに建立された寺院となります。本尊阿弥陀如来像は13世紀後半頃に製作されたとされ、平成15年(2003)に市指定文化財に指定されています。

写真1 永正寺山門北西側の土塁
写真1 永正寺山門北西側の土塁

私が現地を訪れたのは11月上旬でしたが、まず、山門の左側(北西側)に土塁があることが確認できました(写真1)。高さは1m前後でしょうか。しっかりと遺存しています。ただ、永正寺の周辺は、まだ雑草が生い茂っているところも多く、また北側にはJR草津線があるため、なかなか近づいて土塁を確認することができません。かろうじて、本堂北西側の土塁を遠目に確認することができました(写真2)。

写真2 本堂北西側の土塁
写真2 本堂北西側の土塁

ただし、各土塁の外側にあると想定される堀については、結局確認できませんでした。『中世城郭分布調査』でも堀の表現はされていませんので、あるいはその多くはすでに埋没してしまったのかもしません。図1の平面図にあてはめるとすれば、これらの土塁は主郭の周囲を囲んでいたものとなるでしょうか。
このほか、国道1号線を挟んで東側に位置する上鈎池の西側には、鈎の陣所が近辺にあったことを示す石碑が近年建てられています(写真3)。

写真3 鈎の陣所の石碑
写真3 鈎の陣所の石碑

◆おすすめPoint
しかしながら、この永正寺の周囲に残された土塁などの遺構が、鈎の陣所に関わるものであるかどうか、実は諸説があって学術的にはっきりしているわけではありません。しかし、検討する材料の1つとして、永正寺周辺で行われてきた複数の発掘調査成果を挙げることができます。
永正寺周辺では、栗東市教育委員会・公益財団法人栗東市スポーツ協会により、宅地開発などに伴ってこれまでに多くの発掘調査が行われ、報告書が刊行されています。そのうちの1つである『上鈎遺跡発掘調査報告書 平成25年度1次調査』(栗東市文化財調査報告書第78冊 2014)には、永正寺西方約100mの地点で行われた発掘調査とそれまでに行われていた各発掘調査を合わせて、鈎の陣所を考えるうえで興味深い見解を掲載しています。

写真4 椿山古墳
写真4 椿山古墳

それは、①鈎の陣所があった15世紀後葉の遺構・遺物は、永正寺周辺では見つかっていないこと、②12世紀頃の永正寺周辺は、それ以前に沼沢地であったため地盤が軟弱であり、乾燥化が15世紀後葉の段階でどの程度進んだのかはよくわかっていないこと、の2点です。以上のことから考えれば、鈎の陣所、とくに主郭となる部分は、地盤がよりしっかりとした地(永正寺より東側か?)で営まれていた可能性も考えられるのです。
では、永正寺周辺に残された土塁などの遺構はどのように解釈すればよいでしょうか。最も可能性が高いのが、16世紀後葉以降に上鈎で形成されたといわれる寺内村の痕跡と考えることのようです。寺内村とは寺を中心とした自治集落であり、土塁や堀などで囲まれた防御的な性格を持つものを指します。ただし、上鈎寺内村は、防御を意識するほど戦闘的な意識を持った村ではなかったようです。

◆周辺のおすすめ情報
写真3で紹介した石碑は旧東海道沿いに設置されています。そのまま東へ(江戸方面へ)進めば、第136回で紹介された豆腐田楽発祥の地があります。また、第252回で紹介された上鈎遺跡の説明板も、実は永正寺からすぐ近くに建てられています。
もう少し南東方向へ足を延ばすと、栗東市役所の南側に栗東市内最大を誇る椿山古墳があります。形状は帆立貝式前方後円墳で、周濠を含めた全長は135m以上となり、帆立貝式前方後円墳としては県下最大規模となります。発掘調査は行われていませんが、開墾時に発見された遺物などから、5世紀中ごろの築造と考えられています。きれいに整備されているので、墳頂部へは簡単に登ることができます(写真4)。

◆アクセス
【公共交通機関】JR琵琶湖線手原駅下車、西へ徒歩20分(永正寺周辺の道路は非常に狭いため、車での見学は困難です。)

(小島孝修)

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