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新近江名所図会

新近江名所圖会 第331回 近江天保一揆の舞台に佇む天保義民碑(野洲市)

野洲市
写真1 道路脇にある石標
写真1 道路脇にある石標

みなさんは「天保義民」という言葉をご存じでしょうか。江戸時代後期の天保年間(1831~1845)に各地で百姓一揆が起きた際に犠牲になった人々のことを指しています。近江国内でも天保13年(1842年)10月に野洲・栗太・甲賀の3郡の2万5千人とも4万人とも言われる百姓たちが幕府の行っていた検地に反対して百姓一揆を起こし、江戸幕府勘定方市野茂三郎らが滞在していた三上藩陣屋を取り囲み談判を行っています。
時代背景として天保の大飢饉が起きた直後で、多くの百姓が飢えに苦しむ中、幕府による年貢増徴を防ぐため、百姓たちは立ち上がりました。結果として検地10万日延期の証文を得て、一揆は成功しました。なお、10万日は約274年なので、2116年までの日延べとなっています。
その後、この一揆に参加した百姓らは大津代官所で過酷な拷問を受け、特に指導者であった野洲郡三上村庄屋の土川平兵衛や甲賀郡市原村庄屋の田島治兵衛ら11名は、翌天保14年に江戸送りとなっています。ただし、道中で3名が死去、ほかの8名も同年中に死去しています。「甲賀郡志」によると甲賀郡内の獄死または病死した百姓が50人程、処罰された人数は12,571人と記録されています(『甲賀郡志下巻』「第十六編 第十三節 甲賀騒動」に詳しい)。なお、野洲・栗太郡の一揆関係者については詳しい記録は残っていません。

写真2 天保義民碑
写真2 天保義民碑

幕府老中の水野忠邦による天保の改革の失敗の遠因になるなど、当時の社会に与えた影響は大きかったようです。明治期に義挙を称える碑が野洲郡や甲賀郡に建てられました。

◆おすすめPoint
野洲市三上の集落の道路の一角に「天保義民碑從是一丁」と刻まれた石標が立っています(写真1)。そのまま三上山の裏登山道の方へ進むと、保民祠(平兵衛神社、明治26年建立、平成4年新築)や天保義民碑(明治28年建立)、「天保の熱(ほとおり)」という解説板、天保義民碑(写真2)と保民祠の由来の解説板などが設置されています。この場所では毎年10月15日には天保義民祭が行われています。『甲賀郡志』によると、天保義民碑の題額を近衛篤麿が、碑を巖谷修(一六)が書いています。「天保の熱」はイラストを用いているため、一揆の流れがわかりやすく作ってあります。
また、土川平兵衛が江戸送りになる際に、東海道石部宿で親類に残した辞世の句「人のため 身を罪とがに 近江路を 別れて急ぐ 死出の旅立ち」の歌碑(写真3)があり、そこには一揆150年記念で埋納された、一揆200年の2042年に向けたタイムカプセルもあります。

◆周辺のおすすめポイント
天保義民碑の近くには、市野茂三郎らが滞在していた三上藩陣屋跡があります。三上藩は遠藤家の領した藩で石高は1万石、のち1万2千石でした。元禄11年(1698年)に陣屋が置かれ、明治3年(1870年)藩庁は和泉国吉見へ移転し、翌年には廃止されました。現在では長屋の一部が残るのみです。一揆当時は5代藩主遠藤胤緒が幕府の若年寄であったこともあり、一揆関係者への処罰が大きかったともいわれます。

写真3 歌碑
写真3 辞世の句の歌碑

三上山登山や御上神社参詣の折に立ち寄ってみてはいかがでしょう。

(福井知樹)

◆アクセス 
【自家用車】 国道8号「三上」を東にすぐ。三上山裏登山道付近。駐車場なし
【公共交通機関】 JR野洲駅からバスに乗車、「山出前」バス停下車後徒歩5分。

(野洲市三上)

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