新近江名所図会
新近江名所圖會第234回 「鴟尾」を焼いた須恵器の窯-大津市山ノ神遺跡
「鴟尾」・・・訓読みでは「とびのお」と読みますが、「しび」と読みます。奈良の東大寺のような古い寺院の大屋根中央の大棟(屋根の一番高いところ)の両端に付けられた飾りです。鳥の羽のような、魚のような、ブーツのような変な形をしたものです。その鴟尾を焼いた窯跡が大津市瀬田の一里山にある山ノ神(やまのかみ)遺跡で発掘調査によってみつかりました。
鴟尾は、中国の後漢時代に屋根の大棟の両端を反り上げて建物を力強く見せる装飾に始まり、これが南北朝時代には鴟尾となって宮殿や寺院の屋根を飾られました。初期の形状は 鳥の羽状をした鴟尾が多いのですが、次第に唐時代になると無文の胴部、縦帯、鰭部からなる形に変化して、鴟吻(しふん:伝説上の猛獣)あるいは沓形(くつがた)などとも呼ばれました。そして、宋時代には獣頭や魚の形へと変化し、やがて鯱(しゃちほこ)になったと考えられています。日本には飛鳥時代に瓦とともに伝えられました。目的は、災いや火災除けのまじないのために飾られたのではないかと考えられています。また、水の象徴である魚の形にしたとか、めでたいしるしの瑞祥(ずいしょう)と邪悪(じゃあく)を退ける辟邪(へきじゃ)の象徴である鳳凰の尾を記したものではないかとの説もあります。
山ノ神遺跡は、琵琶湖東南部の瀬田丘陵における須恵器や鉄の古代生産遺跡のひとつです。昭和55~63年に大津市教育員会による発掘調査によって、須恵器の窯跡4基(東から3号窯・4号窯・1号窯・2号窯に配置)とそれに伴う灰原(不良品や灰がたまったもの)、須恵器生産の工房と考えられる竪穴建物や掘立柱建物などが発見されました。
4基の窯跡の内、1~3号窯の3基は須恵器を焼いた登り窯です。ところが、4号窯(4基の中で一番古い)は、平成13~15年度の大津市教育委員会による確認調査により、須恵器を焼いていたときに窯の天井半分が崩落したため、焼きかけの須恵器を残したまま再利用して鴟尾を焼く窯に変更したことがわかりました。そして、鴟尾を焼いている最中に再び天井が崩落し、鴟尾が取り出せないまま埋まり現在に至っていました。窯の中には、4基の大型の鴟尾と小型の鴟尾1基が焼かれたままの状態で残されていました。大型の鴟尾の大きさは、およそ高さ1.4m、長さ1mを測り、非常に立派なものです。このような鴟尾は、本来どこの寺院の建物に飾られる予定だったのでしょうか。現段階では、明確な回答はできませんが、近隣の瀬田地域の寺院、古代東山道に面した東光寺などが候補に挙げられます。さらには、なぜ、須恵器を焼くの窯を転用してまで、このような狭い窯で一度に4基の鴟尾を焼く必要があったのか(よっぽど至急に必要となったのでしょうか)、いろいろと疑問はつきません。
山ノ神遺跡では、7世紀前半から須恵器の生産が始まり、7世紀後半に最盛期を迎えています。この時期は、大津宮が営まれた時期に相当しますので、大津宮やその関連施設や寺院などへ、須恵器が供給されたのではないかと考えられています。また、須恵器だけでなく、古墳の被葬者が入る陶棺(とうかん:焼き物のお棺)も焼かれていますので、製陶技術を持った集団がいたからこそ、この窯で大型の鴟尾の生産が可能であったと考えられます。いずれにしても、この発見は全国的に見て鴟尾の生産工程が具体的にわかる非常に貴重な事例と言えます。
現在、山ノ神遺跡は、すでに国史跡指定を受けていた古代の製鉄遺跡である野路小野山遺跡に、山ノ神遺跡と源内峠遺跡を追加して「瀬田丘陵生産遺跡群」として国史跡指定を受けました。また、鴟尾は平成25年度に国の重要文化財に指定されました。
おすすめPint
現地には、平成24年に大津市瀬田南大萱町にある源内峠遺跡の製鉄炉復元を手がけた「瀬田東文化振興会」が大津市との協働事業として平成27年10月から復元を進めてこられ、平成28年4月下旬に登り窯が復元されました。斜面に立体物として復元された模型は(1号窯と2号窯の間の攪乱部分に設置)、やや唐突なイメージもありますが(失礼しました<m(__)m>)、一目で窯内の鴟尾の様子がわかりますので、一度ご覧に訪れてみてはいかがでしょうか。
周辺のおすすめポイント
山ノ神遺跡の周辺には、いっしょに国史跡に指定された野路小野山遺跡(新近江名所圖會第215回)、源内峠遺跡(新近江名所圖會第23回)などの製鉄遺跡や近江国庁跡(新近江名所圖會第85回)、若松神社古墳などが点在しています。ぐるっと、遺跡巡りをしてみてはいかがでしょうか。
(吉田 秀則)
アクセス
【公共交通機関】JR瀬田駅下車徒歩20分、帝産バス滋賀医大行一ツ松下車10分
【自家用車】名神高速道路瀬田東IC、草津田上IC下車10分