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新近江名所図会

新近江名所圖會 第386回 膳所城下町を散策する―大津口から膳所神社―(前編)

大津市
膳所城下町の構造『城と城下町』(2007)p53より転載
膳所城下町の構造『城と城下町』(2007)p53より転載

膳所(ぜぜ)界隈にはさまざまな見どころがあります。今回は城下町の北の入り口(大津口)から膳所神社にかけて、城の名残や城下町のたたずまいなどを見学しながら2回に分けてご紹介します。
膳所の城下町は、北の大津口(京口)から南の勢多(せた)口までの約2.4kmの間、旧東海道を挟み込むように広がっています。大津口・勢多口にはそれぞれ総門(そうもん:城下の出入り口)と総門を警護する侍が詰める番所(ばんしょ)が作られ、東海道からの人や物の出入りを監視していました。膳所城下を通る東海道はまっすぐ通っていたわけではなく、随所で曲げられていました。これは遠見遮断(とおみしゃだん)と呼ばれる道の作り方で、敵の軍勢が東海道を通って攻めてきた場合にその勢いを弱めるための防御の役割を担っていました。このような方法は城下の道に限らず、一般集落を通る道にも見られる防御方法です。

写真1 響忍寺長屋門
写真1 響忍寺長屋門

1.大津口~和田神社
大津口に至る道程(みちのり)はJR東海道本線膳所駅または京阪膳所駅から湖岸へ向かって進み、最初に直交する道が東海道です。そこから右手(東方向)へ直進すると400mほどで道が鍵の手(かぎのて)状に曲がります。そこが城下町の入り口となる大津口です。大津口には現在は石碑が建てられているのみですが、かつてはそこに総門と番所が設けられていました。

写真2 和田神社・正面
写真2 和田神社・正面

 大津口の鍵の手を抜けると相模川(さがみがわ)のところで道は大きく左へ膨らんで、また直進します。この場所が響忍寺(こうにんじ)で家老村松八郎右衛門屋敷の跡といわれています。現地を上から見ると響忍寺の場所を避けるように左へ大きく迂回(うかい)していることがわかります。ここに家老の屋敷を置き、道を曲げ西からの軍勢を食い止める計画でした。ここには元々城内に流れていた相模川の流路を付け替えて堀の役目を持たせ、屋敷内には砲台まで据えられていました。響忍寺の門は長屋門(ながやもん)(写真1)といい、当時上級武士に使用が許された表門が残されています。長屋門とは下級武士の住む長屋の一部を門にしたもので、門の左右に入り口や遠方を見張る侍が住むことができる形式の門です。

写真3 和田神社・表門(高麗門)
写真3 和田神社・表門(高麗門)

門の前を直進すると道は南に曲がります。その内側角には和田神社があり(写真2)、正門(写真3)は藩校の遵義堂(じゅんぎどう)の門が移されています。本殿(写真4)は鎌倉時代の文永(ぶんえい)3年(1266年)に建てられたとされ、国の重要文化財に指定されています。境内には樹齢600年のイチョウがあり、関ヶ原の戦いに敗れた石田三成がこの木につながれたという話が言い伝えられています。

2.和田神社~中大手門・膳所城本丸
東海道を南へ進むと東にある堀の東側が城内で、家老や上級藩士の屋敷が設けられていました。西側は城下町で、下級藩士や町人・商人の住居が割り振られていました。築城の時に商業は大津に担わせたため、商人の住居は東海道の両側に配置されているだけです。

写真4 和田神社・本殿(重文)
写真4 和田神社・本殿(重文)

道の左右には今でも虫籠(むしかご)のような縦格子(たてごうし)の虫籠窓(むしこまど)が造られている厨子二階(つしにかい:二階部分が通常より低い建物)の京都風の町家(まちや)が残されています。商家の1階は格子窓や壁の下側を雨から守るといわれている犬矢来(いぬやらい)とバッタリ床几(しょうぎ:作り付けの縁台)が残されています。(写真5)
東海道から城内へは入り口に中大手門(なかおおてもん)が造られていました。中大手門跡の石碑は東海道と城内からの道の交差点の北西側の建物の敷地隅に建てられています(探しにくいです)。
城跡は、現在膳所跡城公園となって市民の憩(いこ)いの場所になっています。もともと湖水に浮かぶ城であったので、その場所は琵琶湖に飛び出た格好をしています。築城された慶長(けいちょう)六年(1601年)から幕末までの約270年間は平和な時代がながく続いたにもかかわらず、この城は大きな災害をこうむりました。寛文(かんぶん)二年(1662年)に起きた大地震で琵琶湖に飛び出た部分が崩壊したのです。ほどなく従来あった本丸と二の丸を繋(つな)げて本丸とし、その南にあった三の丸を二の丸にして復旧されています。

写真5 (虫籠窓とバッタリ床几と犬矢来)
写真5 (虫籠窓とバッタリ床几と犬矢来)

本丸の北端には四層四階の天守が設けられていました。天守は寛文の地震で西北へ傾いたと地震後に描かれた「膳所城寛文地震修復願ヶ所絵図」(滋賀県立図書館蔵)に描かれており、それ以後の絵図にも天守が描かれていますが、いつ解体されたのかはわかっていません。その後、昭和58年(1983年)の調査では天守台の石垣が確認されています。

今回は大津口から旧東海道に沿って膳所城跡まで歩いてきました。後編は中大手門から膳所神社方向に向かいます。
※本文中の下線は道中に見学できます。

アクセス
【公共交通】
・「膳所城大津口(北総門跡)」、「和田神社」:京阪石坂線錦駅から徒歩10分
・「膳所城公園」京阪石坂線膳所本町駅から徒歩10分
※旧東海道は道が狭いうえに交通量が意外と多いので道中は車等に注意してください。
(三宅弘)

■「膳所城大津口」への地図

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