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調査員のオススメの逸品 第248回 栗東市蜂屋遺跡から出土した忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦

栗東市

平成30年度の栗東市蜂屋遺跡の発掘調査において古代寺院跡がみつかりました。報道に大きく取り上げられ、11月3日の現地説明会には大勢の見学者があり、たんぼ道がまるで繁華街のように混雑するありさまでした。なぜこれほどの注目を集めたかといえば、今回の発掘調査によって、この寺跡が法隆寺と深い関係があると推定できるとわかったからです。その詳しい内容については現地説明会資料に譲るとして、ここではその歴史ストーリーを支える核心的根拠のひとつについて取り上げます。

それは蜂屋遺跡で出土した忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(以下、蜂屋瓦)と法隆寺のそれとの同笵関係です。瓦作りの道具である笵が同じ(同笵)といっても、両者の詳しい関係はどうなのか、というお話しです。

蜂屋遺跡 忍冬文瓦の笵傷
蜂屋遺跡 忍冬文瓦の笵傷

さて、蜂屋遺跡の発掘調査の現場でこの軒丸瓦をはじめてみたとき、10年前に開催された展覧会を思い出しました。安土城考古博物館の平成20年度春季特別展「仏法の初め、茲より作れり」です。この展覧会に法隆寺で出土した忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(以下、法隆寺瓦)が出展されていたのです。

私はこの展覧会の開催に少しかかわり、この瓦を親しく見る機会を得ていたので、蜂屋瓦はこれと同笵ではないかと直感しました。当時刊行された展覧会図録や既刊の書籍等に掲載された写真を見較べると、笵の特徴などから、両者は同笵であると推定できました。しかも、『法隆寺の至宝 瓦』に掲載されたディテール写真をみると、瓦にのこされた笵傷(今回示した写真のA箇所)は法隆寺瓦よりも蜂屋瓦のほうが少ないように見えました。

忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦は、実は法隆寺の隣にある中宮寺でも出土しており(以下、中宮寺瓦)、笵傷の進行からみると、中宮寺では法隆寺に先んじてこの瓦が使われたとされています。『飛鳥白鳳の古瓦』の巻頭を飾る中宮寺瓦のカラー写真を確かめると、なるほどそうかなと思えました。つまり、写真で笵傷の進行状況を見くらべる限りでは、蜂屋瓦は中宮寺瓦と法隆寺瓦の間に位置づけられるようでした。忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦の笵は「大和(中宮寺)からいったん近江(蜂屋遺跡)にやって来て、また大和(法隆寺)に戻っていた!?(「中宮寺瓦 → 蜂屋瓦 → 法隆寺瓦」)」という、不思議な動きをするように見えました。

このような事前予想のもと、発掘調査を担当した宮村くんと斑鳩町教育委員会および奈良文化財研究所に蜂屋瓦の実物を持参し、法隆寺瓦との実物照合をおこなったところ、次のようなことがわかりました(以下、今回示した写真の指示記号と照合しながら読んでください)。

すなわち、笵傷①は蜂屋瓦にも法隆寺瓦にも認められ、笵の特徴とあわせると、これだけでも両者が同笵であることが確定できました。そうなると次に笵傷⑥が問題となります。蜂屋瓦のこのA箇所にはこの笵傷⑥しかみあたらないのですが、法隆寺瓦には笵傷⑥近くにもっとたくさんの笵傷がありました。ここまで確認すると、法隆寺瓦は蜂屋瓦にくらべて使い古した笵(傷が進行した笵)を使って作られている、つまり蜂屋瓦を作った後に法隆寺瓦を作っている(「蜂屋瓦 → 法隆寺瓦」)と思えました。

しかしそうした場合、同時に矛盾があることにも気づきました。蜂屋瓦をよく観察すると、笵傷④(木製笵の木目の浮き出し)や笵傷⑤が認められる一方、法隆寺瓦には笵傷④も⑤も見当たりません。「蜂屋瓦 → 法隆寺瓦」という順番ならば当然、法隆寺瓦に笵傷④⑤がないわけがありません。しかし、見当たりません。さらによく見ると、蜂屋瓦には中房の蓮子の一つにもう一つ蓮子がかぶっているように見える笵傷③があります。しかし、法隆寺瓦には笵傷③もありません。このように見てくると、笵傷①も蜂屋瓦は法隆寺瓦のそれよりも太いように見えます。こうした事実の一方で、さきに述べたように、蜂屋瓦のA箇所付近には笵傷⑥しか見当たらないのに、法隆寺瓦には笵傷⑥近くにもっとたくさんの笵傷があります。この矛盾した二つの事実はどのように整合的に理解すればよいのでしょうか。

ここで再び法隆寺瓦をよく観察すると、笵傷②がないグループと笵傷②があるグループとがあることがわかりました。この笵傷②の有無を基準に法隆寺瓦に新古関係を設定すると、前者が古段階、後者が新段階ということになります。そのうえで改めて蜂屋瓦を観察すると、笵傷②が確認できました。蜂屋瓦には笵傷③④⑤もあるので、これらを見ると蜂屋瓦は法隆寺瓦の新段階かそれよりも新しく作られたと推定できます。それにもかかわらず、蜂屋瓦のA箇所には笵傷⑥しかなく、蜂屋瓦は新古どの段階の法隆寺瓦よりもA箇所の笵傷は少ないという事実があります。それはなぜでしょうか。

この矛盾を解決する答えはA箇所とB箇所の凹凸関係にありました。つまり、法隆寺瓦ではA箇所とB箇所がフラット(同じ高さ)であるのに対し、蜂屋瓦ではA箇所がB箇所にくらべて高くなっています。瓦の実物で見てA箇所がB箇所にくらべて高くなっているということは、笵のB箇所はそのままにしておき、A箇所だけを彫り込んだということになります。つまり、法隆寺瓦を作り終えた最終段階において、A箇所の傷が目立ってボロボロになってきたから、それを消すために笵のA箇所の細い幅をぐるっと一周にわたって彫り込み、改笵したと考えらえます。その結果、蜂屋瓦のA箇所には笵傷⑥しか観察できなくなり、一見すると蜂屋瓦は法隆寺瓦に先行するように見えることとなったのです。そうした目で見ると、笵傷とした③も元々あった蓮子の位置が他とくらべて少しズレているので、同時に蓮子をあらためてもう一つ彫り直したと見ることができるかもしれません。

以上のように、蜂屋瓦と法隆寺瓦との実物照合の結果、法隆寺瓦を作り終えた最終段階で改笵をおこない、その笵を使って蜂屋瓦を作ったことがわかりました。そして、今回は残念ながら実物照合できなかった中宮寺瓦についても、これまでそれぞれを代表する個体でもって「中宮寺瓦 → 法隆寺瓦」とされてきた前後関係は、実は上述の法隆寺瓦における新古関係のなかに解消されてしまう可能があると予想しています。つまり、今回の結論としては「法隆寺瓦の古段階(中宮寺瓦)→ 法隆寺瓦の新段階 → 蜂屋瓦」という新古関係が認定できそうだと考えています。

なお、法隆寺瓦(とくに新段階)のなかには胎土も焼成も蜂屋瓦ととてもよく似た個体がありました。実物照合をしていると、どっちが法隆寺瓦でどっちが蜂屋瓦かわからなくなり、取りまちがえて滋賀県に持って帰っても、だれも気づかないほどよく似ていました。現時点での蜂屋瓦の出土数の少なさを考慮すると、蜂屋瓦はもしかすると大和でつくって近江に運び込んできた可能性もありそうです。蜂屋遺跡のある栗太郡物部郷と法隆寺との関係は、これまで想像していた以上に深そうです。

蜂屋瓦と法隆寺瓦の実物照合にあたり、斑鳩町教育委員会の平田さん、荒木さん、奈良文化財研究所の今井さん、岩戸さんのお世話になりました。ありがとうございました。

(北村圭弘)

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