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調査員オススメの逸品第168回 江州音頭―近江人の心に染みる逸品―
夏の暑さも厳しさを増すころ、よく耳にするのが江州音頭です。聞くとつい口ずさんでしまうのは、あちらこちらから流れてくるからでしょうか。それとも、小さいころから聞き親しんできた盆踊り唄であるからでしょうか。
さて、盆踊り唄やその踊りは、古くから地域に伝承されてきたように思われがちですが、盆踊りの定番である東京音頭が昭和初期にできたことや、戦後にヒットした炭坑節が全国の盆踊りで広く踊れるようになったように、実はその時々の流行歌が取り入れられたものなのです。最近では“ヨサコイ”でしょうか。
江州音頭の起源をたどっていくと、江戸時代後半の文政年間にまでさかのぼります。西澤寅吉(彦根市出身、後の櫻川歌寅改め櫻川大龍)が,当時現在の東近江市の旧八日市域に来ていた関東武州の櫻川雛山(さくらがわ ひなざん)に弟子入りして、歌祭文(うたざいもん)を習い、奥村久左衛門(後の真鍮屋好文〔しんちゅうや こうぶん〕)と協力して「八日市祭文音頭」をつくり、弘化三年(1846)に犬上郡豊郷町木枝の千樹寺本堂再建の落慶法要で初披露しました。これにちなんで、現在では、江州音頭発祥の地として、初披露の場である千樹寺と、考案地である東近江市・延命公園にそれぞれ記念碑が建立されています。
当初は「八日市祭文音頭」と呼ばれていましたが、明治20年代初頭に上方で上演されて評判を得たことから、当時上方で上演されていた河内の音頭と区別するためにそれぞれ「江州音頭」・「河内音頭」と呼び分けられるようになりました。つまり、「江州音頭」は「江州(近江国の別名)」で生まれたものであるけれども、地域を離れて、演目の一つとして上演されるようになったのです。
大阪で演じられる「八日市祭文音頭」改め「江州音頭」はそこで独自の変化を遂げたため、現在ではその構成やいわゆる節回しなどが今の滋賀県でよく聞かれる「江州音頭」とは異なっています。それもまた時代の変化でしょうか。賑やかにエレキギターが入り、“ヨイトヨイヤマッカドッコイサノセ~”の音程が違うなど、「近江人」は慣れ親しんだ「江州音頭」との違いに違和感を覚えてしまうのです。
さて、江州音頭は歌祭文の中でも「デロレン祭文」の影響を受けています。この「デロレン祭文」は江戸の山伏修験者(俗山伏ともいわれる)が始めたといわれ、直接ホラ貝を吹かず、その擬音(デーン、デレーン、デレレーン、レーレレン、レーロレンレンなど)を語りの合間に唱えるもので、口に当てたホラ貝で声を共鳴させました。この「デロレン祭文」が「江州音頭」に影響を与えたという指摘は,「江州音頭」を口ずさんでみると,納得できます。江州音頭にも“デレレン デレレン デンデレレン”(もしくはデロレン デロレン デンデロレン)が出てくるからです。
祭文は、神道・仏教・陰陽道などにおいて神仏への祈願や奏上にみられ、古くは『続日本紀』に登場します。もともと宗教儀礼の一部であった祭文ですが、次第に宗教から離れて芸能化し、娯楽的要素が強まっていきます。歌祭文もその過程で生まれました。
江戸時代中頃の元禄の頃には、三味線を伴奏にした歌祭文が生まれ、流行します。その冒頭には“祓い清め奉るノホホ”“敬って申し奉るヨホホ”等の詞が入ります。この“ノホホ”“ヨホホ”はホラ貝の擬音といわれています。元禄三年(1690)の『人倫訓蒙図彙』には手錫杖を持つ山伏の姿(図1)とともに、「江戸祭文というは白こゑにして力身を第一として」「錫杖にのせ」たことが記されており、錫杖を用いて語ったことがわかります。さらに、元明九年(1789)の『新造図彙』には「螺ほらかい」の項に「さいもんの三味線に此貝を用ゆ」とあります。伴奏や持ち物としての三味線の代わりにホラ貝を持ち、口三味線のように擬音を唱えたのでしょう。その少し前の万治元年(1658)の『東海道名所記』には「山伏一人来たり、錫杖をふりて祭文を読む、かしましさ物音も聞えず」とあり、かしましく語りが聞こえにくいほどに賑やかな様子が伝わります。そして、文政十年(1830)の『嬉遊笑覧』には寛政年間(1789-1800)のこととして、「なりものは錫杖とささやかなるほら介〔貝〕にて合す」とあります。片手にホラ貝、もう片手に金杖を持って唄う今日伝わるデロレン祭文のかたちは、寛政頃には整っていたようです。また同書には、山伏の祭文語りを真似て俗人にも祭文を語るものが出てきたことが記されています。これを「上州祭文と呼ぶ。皆上州よりくる故なり」とあり、この頃にはデロレン祭文が全国的に伝播し、演者の集積地も江戸の周辺に移り、特に関東上州に多くいたようです。滋賀県旧八日市市域で西澤寅吉がデロレン祭文を習ったのもちょうどこの頃です。
ところで、デロレン祭文が盆踊りに取り入れられた背景には、踊り念仏の存在が欠かせません。踊り念仏は平安時代中頃にまでさかのぼります。僧侶空也が、それまで貴族など上流階級のものであった仏教を庶民に広く伝えようと活躍します。鎌倉時代中頃なると、その影響を受けた一遍が踊りながら念仏を唱える踊り念仏を展開します。踊り念仏はその後も永く残り、「八日市祭文音頭」の生まれた近江でも盛んに行われていました。寅吉が初披露した千寿寺でも行われていて、盆踊りへとつながっていくことになるのです。デロレン祭文は大正期に入ると関東・北陸でほぼ姿を消しますが、盆踊りと結びついた近江をはじめ関西では現在も聞くことができるのです。
曲を聴くと身体が動いて口ずさんでしまう―櫻川歌寅がつくった江州音頭は、もはや近江人の心に染み入る逸品といえるでしょう。
(中川 治美)