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調査員のおすすめの逸品 №294 取り巻く世界を広げてくれた縄文時代の丸木舟-米原市入江内湖遺跡出土丸木舟

米原市
写真1 入江内湖5号丸木舟出状況
写真1 入江内湖5号丸木舟出状況

今回私が紹介する逸品は、縄文時代の丸木舟です。縄文時代の丸木舟は、全国で120艘ほど出土しています。その名の通り、丸木をくりぬいて舟にしたものです。金属をまだ知らなかった縄文人たちは、石の斧でこの舟を作っていました。形状から見て、その多くに前と後の違いは明確でなかったようで、どちらにでも進めたようです。全国120艘から平均値を割り出すと、長さ5.85m、巾0.56m、深さ0.23mとなります。長さは大人の身長の3倍以上で、丸木を使った舟だけに、狭くて浅めの舟と言えそうです。
わが滋賀県からはこれまで30艘が出土しています。縄文時代の遺跡は東日本にとても多く、西日本で少ない傾向にありますが、丸木舟に関しては120艘中の1/4が琵琶湖周辺から出土していることになります。さすがビワコ!私も2002年から2004年にかけて担当した米原市入江内湖遺跡で合計4艘を掘り当てましたが、全国的に見たらレアケース。貴重な体験になりました。

そんなご縁もあって、この30艘を丁寧に観察していくと、形態の違いから2つのタイプがあることに気が付きました。
タイプA(図1・2)は、上から見ると前後の先端部はV字形を呈しているものです。スラリとした流線形をしています。横から見た側面形もまた滑らかで、底面から舳先へのラインに角張ったところはありません。全般的にゴツゴツしたところがなく、スッキリとした弧状を呈しています。京都大学のボート部の学生さんにかつて聞いたところ、側面に角張ったところがないタイプAは旋回の時に水の抵抗が少ないので、小回りが利くようです。

図1 タイプAの丸木舟実測図
図1 タイプAの丸木舟実測図

ただ、それだけ舳先がぶれやすく、前からの波を切りながら沖合まで漕ぎ出していくのは難しいとのこと。浅瀬のヨシ原の中を、行ったり来たりしながら魚やスッポンの漁をするのに向いているということでした。
タイプB(図3・4)の最大の特徴は、横から見た側面形です。底面から舳先へのラインに明確な屈曲点があり、そこが角張ったゴツイ形状をしています。現代の自動車に例えるとワゴン車のような感じでしょうか。同じくボート部の学生さんたちに聞くと、タイプBは、側面がスッキリとしておらず、それだけに旋回時の水の抵抗は大きいので、舳先がぶれにくく、前からの波を切りながら直進しやすいそうです。これなら、沖合までも怖がらずに漕ぎ出していけるとのことでした。
琵琶湖周辺出土の丸木舟を分類すると以上のようになりますが、30艘中、タイプAに相当するのは2艘だけで、縄文時代前期のものに限られます。いずれも5,500年ほど前のものでした。それ以外の28艘は全てタイプBです。どれも3,800年前の縄文時代中期末以降のものでした。

図2 タイプA模式図
図2 タイプA模式図

これらのことから、琵琶湖における縄文丸木舟の利用のあり方は、沿岸部の浅瀬を動き回るものから、沖合にも漕ぎ出すようなものへと移行したこと、その移行時期は3,800年前頃だったことが推察できそうです。
ちなみに、琵琶湖に生息する魚類の多くは、春~夏の産卵期になると沿岸部の浅瀬へ大挙して押し寄てきせますが、それ以外の季節は沖合へと戻ってしまいます。大津市粟津湖底遺跡の調査などから見て、4,000年前より昔の琵琶湖周辺に住む縄文人は、浅瀬へ集まった産卵期に魚類を一網打尽にするような形で利用していたことが分かっています。

図3 タイプB丸木舟実測図
図3 タイプB丸木舟実測図

対して4,000年前より以降の縄文人はどうでしょう。タイプBの丸木舟で沖合に漕ぎだしていくことができますので、春~夏に浅瀬へ押し寄せた魚類だけでなく、秋に沖合へ戻ってしまった魚類も利用できるようになった可能性があります。
興味深いことに、この頃から釣針の出土例が全国的に増加しています。琵琶湖周辺でも、米原市入江内湖遺跡などで出土例が確認され始めます。これらのことも沖合・深場へと活動域が拡大した可能性を裏付けてくれそうです。
就職1年目の夏、私は初めて車を買いました。原付バイクしか持っていなかった私の行動範囲は一気に広がり、出来ることも大きく増えました。車という乗り物は、私を取り巻く世界を確実に大きく広げてくれたのです。琵琶湖周辺から出土する縄文時代の乗り物-特に丸木舟タイプB-もまた、琵琶湖の縄文人を取り巻く世界を大きく広げてくれた「逸品」だったといえそうです。(瀬口眞司)

図4 タイプB模式図
図4 タイプB模式図

≪参考文献≫
滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会2007『入江内湖遺跡Ⅰ』

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