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調査員のおすすめの逸品№363 叩いてごめん。―粟津湖底遺跡出土・縄文の<白いお椀>―

大津市

 今回ご紹介する逸品は、大津市粟津湖底遺跡第3貝塚から出土した縄文時代の「白いお椀」です。粟津湖底遺跡とは、琵琶湖南端の水面下に眠る湖底遺跡で、第3貝塚とはそこで見つかった縄文時代中期初頭(およそ5,000年前)の貝塚です。1990年の秋~1991年の夏に発掘調査が行われ、1991年の春に入社した私は、社会人1年生として調査に従事していました。 

  逸品──〈白いお椀〉を目にしたのは、調査も終盤に近い7月初めでした。私の記憶の中では作業員さんが一人も出てこないので、彼らが〈半ドン〉で帰ってしまった土曜日の午後のことだと思います。第3貝塚最下層に相当する砂層の1つを、汗みずくになりながら1人で掘っていたとき、その〈白いお椀〉は姿を現しました。

写真1 <白いお椀>の正体 

 第3貝塚の調査では、日々、たくさんの縄文土器が出土していました。土器の底が上になって出てくることもよくあるので、今回もその1つだと思いながら掘り進めていました。でも、なんだか妙に丸みがあって色も真白です。変な土器だなぁと思いながら、軽くトントン叩いたりしながら、愛着を持ってのんきに掘り進めておりますと、その〈白いお椀〉の表面に縫い目のようなものが見えてきました。その瞬間、思い出したのは小学校の理科室でぶら下がっていたあの人体模型。──私が掘っていた〈白いお椀〉の正体は、ヒトの頭蓋骨で、縫い目のように見えたのは、頭蓋骨に形成されている「縫合線」とよばれる線でした。軽々しくもトントン叩いていた自分を呪いながら、私はベテラン調査員のもとへ慌てて走り出しました。

図1 ベテラン調査員があっという間に描いた図面

 ベテラン調査員のその後の処置はさすがに早く、出土状況の写真だけは私に撮影させた上で(写真1)、あっという間に必要な記録を終え、丁寧に取り上げていきました。その流れるような早技と美しい図面(図1)は深く印象に残っています。

 なお、第3貝塚からは、そもそもヒトの骨はほとんど出土せず、ほかにも墓穴のような遺構は見当たりません。この頭蓋骨の周辺も5㎝ほど浅く凹んでいましたが、墓穴のように掘り凹めたものではなく、この人骨は「埋めた」ものというより、「置いた」ものというべきものとなります。

 この頭蓋骨には、さらに意外な事実が3つありました。第1は首から下が見つからないことです。この頭蓋骨のまわりからは首から上の骨──下顎骨(かがいこつ)や若干の頸椎(けいつい)・胸椎など──は見つかっていますが、胴部や手足の骨は1つも確認されていません。

 第2は、一緒に見つかった頚椎や胸椎などを細かく観察しても、斬首した時に残るような傷(カットマーク)は一切確認されない点です。このことから、わざわざ白骨化した後に選択的に取り上げられたものだと考えられます。

 第3は、一緒に見つかった首の骨には、A第一頸椎一点、B胸椎一点、C頸椎二点がありましたが、Cだけは別の人物の骨だった点です。

 以上のことを総合すると、この人骨は、第3貝塚とは別の地点にある他の埋葬地――複数人の遺体が埋葬されているような墓地――から、白骨化した遺体をわざわざ掘り起こし、首から上の骨だけを敢えて選んでここに持ち込み、据え置いたものだと推察できそうです。では、何故そんなことしたのでしょうか?

写真2 展示の人気者

 その理由は謎に満ちていますが、この頭蓋骨が出土した層の位置付けがヒントになるかも知れません。出土した層は第3貝塚の最下層に相当しています。このことは、頭蓋骨が据え置かれたタイミングが、この地点の利用の最初の段階だったことを意味しています。もしかすると、先祖の遺体の一番大事な部分――頭部をここに据え置くことで、この場所の神聖化や、我が土地としての占有宣言し、そこからこの貝塚が始まったのかも知れません。

 ちなみにこの謎に満ちた頭蓋骨は、展覧会へ出品するたび、老若男女から結構な人気を集めます(写真2)。本物の人骨を見る機会なんて滅多にないからかもしれません。惹きつける魅力にも満ち溢れているという意味でも、この頭蓋骨は調査員の逸品だと言えそうです。

(瀬口眞司)
<出典>
滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会『琵琶湖開発事業関連埋蔵文化財発掘調査報告書1 粟津湖底遺跡第3貝塚(粟津湖底遺跡Ⅰ)』(1997.3)

瀬口眞司『琵琶湖に眠る縄文文化 粟津湖底遺跡』シリーズ「遺跡を学ぶ」107 新泉社(2016.3)

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