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集斯亭

新近江名所図会

新近江名所圖会 第153回 集斯亭―日野町・恩山面姉妹都市交流20周年記念―

日野町
(蒲生郡日野町小野)
集斯亭
集斯亭

六角形の平面形態で軒先は緩く弯曲し、その頂(いただき)を仏塔状のモニュメントで飾る、エキゾチックなこの建物をご存じでしょうか? これは日野町小野にある鬼室神社の隣の「国際交流広場」にある「集斯亭」です。鬼室神社の社殿の背後に鬼室集斯の墓があり(鬼室神社の詳細については、びわこの考湖学第2シリーズ第45回「鬼室神社と鬼室集斯」をご参照ください)、その父である鬼室福信の墓が大韓民国忠清南道扶餘群恩山面(うんざんめん)の恩山別神堂にあることから、日野町と恩山面は平成2年(1990)に姉妹都市提携を結びました。国際交流広場は、姉妹都市交流20周年を記念して平成21年(2009)11月8日に竣工されたもので、「集斯亭」は韓国の古代建築を模してつくられました。

鬼室神社
鬼室神社

古代の日野町域は、現在と同じく蒲生郡に含まれていました。『和名類聚抄』によると、蒲生郡は東生(ひがしなり)・西生(にしなり)・必佐(ひっさ)・篠田(しのだ)・篠笥(ささき)・大島(おおしま)・舩木(ふなき)・安吉(あき)・桐原(きりはら)の9郷からなっていました。

鬼室集斯の墓
鬼室集斯の墓

『日本書紀』天智天皇8年(669)是歳条には、百済の遺民である佐平余自信・佐平鬼室集斯ら男女700余人とともに近江国蒲生郡に遷した、と記されています。また、同9年(670)二月の記事に、「ときに天皇蒲生郡匱迮野(ひっさの)に幸(いでま)して宮地(みやどころ)を観(みそな)はす」とあり、同10年(671)一月条には、佐平余自信に大錦下、鬼室集斯に小錦下を与えるなどの記事があります。大津宮遷都(669)の2年後に宮の候補地として「蒲生郡匱迮野」を視察し、蒲生郡に遷した百済の遺民に冠位を授けているのです。日野町十禅師には、郷名と同音の比都佐神社があり、この神社が所有する古文書や出雲国蒲生文書にみられる郷名と条里坪付け記載との関係などから、「必佐郷」は十禅師地区を中心とする必佐地区で、『日本書紀』の「匱迮野」は必佐郷周辺を指すものと考えてよいでしょう。
なお、平城京出土木簡(左京二条二坊十一・十四坪界小路跡)には、天平3年(731)銘の木簡とともに「・近江国□□郡必佐郷□□□ ・大伴部大山一□」と記された木簡が出土していて、8世紀前半には必佐郷が成立していたことは確実です。
周辺には、北代遺跡や野田道遺跡といった7世紀後半から8世紀にかけての遺跡が存在しています。北代遺跡は出雲川左岸の段丘上に立地し、2基の終末期古墳のほかに多数の竪穴住居や掘立柱建物も見つかっています。また、日野川右岸の低位段丘上に立地する野田道遺跡では、移動式カマドが出土した竪穴住居とともに、オンドル状遺構をもつ竪穴住居も見つかっています。また、住居跡から北へ300mの地点では、大量の鉄滓や鞴羽口など、大鍛冶関連の遺物が出土していて、8世紀初頭に鉄製品の生産を盛んに行っていたことがうかがえます。
これらの遺跡は、当地に遷した百済遺民との関連を指摘することができ、野田道遺跡で確認された大規模な鉄製品生産は、宮地視察とあながち無関係ではないのかもしれません。

周辺のおすすめ情報

滋賀農業公園「ブルーメの丘」
ドイツ語で「花」という意味の「ブルーメ」の名の通り、中世ドイツの農村をイメージした公園には四季それぞれの花が咲き誇ります。

アクセス

【公共交通】近江鉄道桜川駅から原行バス約25分、小野下車すぐ(原行きバスは日・祝日運休)。
【自家用車】名神八日市ICから12km、20分
【自 転 車】愛東マーガレットステーションから13km/1時間(休憩含む)/獲得標高51m


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(大崎康文)

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