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新近江名所図会

新近江名所圖会 第329回 膳所藩主の御殿とその庭園-大津市瓦濱御殿・庭園

大津市

○膳所城とその遺構
膳所城は大津市膳所の湖岸にあった江戸時代のお城です。現在は本丸部分が膳所公園となり、お花見の名所として御存知の方が多いのではないでしょうか。
膳所城は関ケ原の合戦後、徳川家康が京への備えとして慶長6年(1601)に築城し、それ以降本多氏をはじめとする譜代大名が封ぜられました。しかし、江戸幕府が滅びた直後の明治4年(1872)に膳所城は廃城となってしまいました。その結果,本丸をはじめとする主要な施設は早々に売却・解体されてしまったのです。お城の石垣も琵琶湖疏水等の建設資材に転用されました。城跡一帯は廃城後たちまち畑に姿をかえてしまったといわれています。
こうした経緯もあって、現在膳所城跡には当時の姿をとどめる建物や石垣は一切残っていません。現在、膳所城跡-現在の膳所公園に行きますと、その入り口付近には,「城門」や「堀」があったり,湖中に突き出た城跡の周囲には「石垣」があったりして、お城の雰囲気が漂よってはいます。しかし、これらはいずれも戦後になって復元されたものです。しかも、残念なことに往時の姿のとおり忠実に復元されているわけではないのです。
そうした中で,現在でも見学できる数少ない膳所城に関連する遺構として,今回ご紹介する,本多神社境内にのこる瓦濱御殿の遺構があります。

写真1 現在の本多神社境内
写真1 現在の本多神社境内

○瓦濱御殿とその庭園
現在の大津市御殿浜に本多神社があります。この本多神社は、膳所藩主を輩出した本多氏ゆかりの神社で、明治16年(1883年)に旧膳所藩士等の有志によって建立されました。祭神は本多氏中興の祖と仰がれる本多忠俊・忠次・康俊・俊次の4名で、このうち康俊・俊次は膳所藩主となった人物です。この本多神社の境内地一帯には,もともと江戸時代初期(万治三年着手,寛文四年竣工)に膳所藩主本多俊次が藩主の隠居所として創設した瓦濱(瓦が濱)御殿がありました。
初期の瓦濱御殿の様相については、元禄13年4月の城下図によれば北と東は湖水、南は瀬田口総門の堀と街道筋、西は若宮八幡宮境内地と篠津川にそれぞれ接し、東西93間、南北約77間半、面積約7000坪だったといいます。この図には内部の建物等が描かれていないので、内部の構造はよくわかっていません。
また、本多神社には「濱御殿御庭絵図」という絵図が残されています。これは改築後の「御庭」、つまり庭園の様子を示したと考えられる絵図で、御殿のなかでも南側の庭園部分が中心に描かれ、その北側にあったであろう御殿については一部が描かれるにとどまります。
それによると、御殿敷地の南側には,湖水から水を引き入れた池が中心となり、池中に中島がいくつも浮かぶ多島式池庭があったことがわかります。こうした多島式池庭は、江戸時代初期頃の大名屋敷に伴う庭園に多く認められるものです。また,毎年春二月の初午の日に御殿が一般町民に公開され、庭園も縦覧されたといいます(明治41年旧膳所藩士平田好著『懐旧座談』所収「濱御殿記」による)。
このように広大な庭園でしたが、廃城後急速に荒廃が進み、明治40年頃には敷地の大半が田畑に姿を変えていたといいます(『懐旧座談』)。さらに、戦後に都市化が進行するにしたがい、御殿の敷地の北半部分は各種の開発が進み、市街化された結果、現在はその面影が全くありません。残念なことに遺跡としての認知されていなかったため、十分な発掘調査が実施されることなく、破壊されてしまったのです。ただ幸いなことに、現在でも本多神社境内には、庭園の池泉の一部と石組み,さらにその周辺には複数の築山等が残されており,大名屋敷に伴う多島式池庭の一端を垣間見ることができます。

写真2 本多神社境内「石棺」
写真2 本多神社境内「石棺」

◆おすすめPoint
「古墳」と「石棺」 さて、かつて江戸時代の大名庭園が存在した本多神社境内一帯には、さらに古い時代―古墳時代の遺跡として、「御殿浜古墳」(あるいは「本多神社古墳」ともいう)と称される古墳(群)の存在が想定されています。現地にも「本多神社古墳群」と記した石柱が建てられています。この場所に古墳の存在が想定された理由は、残された築山の一つに点在する石組みのなかから「石棺」が見いだされたことでした。つまり、江戸時代にこの場所に庭園を造営しようとしたところ、石棺が見つかったので、古墳の墳丘を築山とし、石棺をお庭の配石として利用したのではないかと考えられたわけです。
しかし、最近、この「石棺」をあらためて観察したところ、石棺とみるには内部の刳り込みがあまりにも浅いことに違和感を覚えました。さらに検討を進めた結果、「石棺」と考えるよりも古墳時代よりもさらに新しい時代-中世頃の石製水盤(手水鉢のように水を貯めるための石製容器)と見る方が穏当であり、従来のように石棺の存在を根拠として古墳の存在を想定することは難しいと考えるにいたりました。

◆周辺のおすすめ情報
本多神社境内には、膳所藩関係史料を多数展示した膳所藩資料館(事前連絡要)や,幕末の動乱に散った尊皇攘夷派の11烈士などをまつる丹保宮(におのみや)があります。

◆アクセス
京阪石坂線瓦ヶ浜駅から徒歩5分

(辻川哲朗)

〇本多神社 大津市御殿浜町

≪参考文献≫
重森三玲他(1973)『日本庭園史大系第十二巻』社会思想社
竹内将人(1983)『膳所六万石史』立葵会
辻川哲朗(2020)「大津市本多神社境内所在「石棺」の再検討」『淡海文化財論叢第十二輯』淡海文化財論叢刊行会

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