新近江名所図会
新近江名所圖会 第173回 戦国大河皆勤賞、長浜城
「功名が辻」「天地人」「江」「軍師官兵衛」、この10年の間、長浜城が登場した大河ドラマは思いつくだけでも4つあります。戦国時代や幕末を取り上げる上で、避けては通れない滋賀県ですが、中でも長浜は城主であった羽柴秀吉とともに戦国時代を描く上で絶対に無視できない存在として数々のドラマや映画、小説などに登場します。
そんな羽柴秀吉が初めて城持ちとなったのが長浜(当時は今浜という名前であったのを秀吉が改名)でした。
浅井勢との戦いで功をあげた秀吉は、信長からその居城であった小谷城を任されますが、京への最短・最速ルートである湖上交通を重視した信長の戦略もあり、琵琶湖畔に新しく城を築きました。絵図や文献などから現在の湖岸道路のあたりに内堀、JRの線路よりも東に外堀があったと推定されますから、まさしく湖岸の城であったことが伺えます。
長浜城は秀吉の後、山内一豊や内藤信成が城主を務めますが、関ヶ原合戦の後、彦根城が築城されたことで湖北の湖上交通の抑えとしての役目を終えます。彦根城は築城時に佐和山城をはじめ、近隣の様々な城から部材が転用されたリサイクル城として有名ですが、長浜城は運搬距離が比較的短いことや、湖畔に位置しており、解体した資材を湖上ルートで運ぶのに便利なこともあってか、そのほとんどが彦根城に転用され、現在では当時の痕跡はほとんど残っていません。
オススメポイント
数少ない築城当時の痕跡としては太閤井と、天守台と推定される小山があります。
太閤井は現在、琵琶湖の中にあり、琵琶湖の水位が下がっている時には石碑の足元の石組みがあらわになっていますが、それでも足を濡らさずに近づくことはできません。なぜ井戸が湖中にあるのかといいますと、天正13年(1586)の大地震の際、現在の豊公園一帯を含む長浜周辺の湖岸の土地が広く沈下したためと考えられます。豊公園の南側の沖合にある湖底遺跡(下坂浜千軒遺跡)などはその時の地盤沈下によって湖中に没した村の跡と見られていますから、当時の湖岸線は現在より100m程度沖合にあったと考えられます。この大地震では長浜城の建物が「悉(ことごと)く傾倒」し、当時の城主であった山内一豊の一人娘がこの時の建物倒壊に巻き込まれて乳母共々亡くなっています。
天守台推定地は現在の復原天守(長浜城歴史博物館)とは違う位置ですが、石碑と銅像があるので場所は遠目にもわかりやすくなっています。しかし、本当にここに天守があったのか、面影をしのぶことも出来ないほど、何も残されていません。また、この秀吉像は長浜駅前の献茶像とは違い、甲冑姿ではなく束帯姿です。
周辺のオススメ情報
移築された建築物としては大通寺台所門と知善院表門があります。
知善院表門は長浜城の搦手門(裏門)であったと言われています。
長浜城の追手門(表門)を移築した脇門(薬医門)です。大通寺は他にも本堂や大広間が伏見桃山城の遺構と言われています。
長浜城歴史博物館の5階は360度の展望階になっており、天気がよければ湖北一の信仰の地である竹生島や比良の山並みを見ることができます。
アクセス
長浜城歴史博物館
JR北陸線長浜駅から徒歩5分
入館料400円
大通寺
JR北陸線長浜駅から徒歩10~15分
拝観料500円
知善院
JR北陸線長浜駅から徒歩10~15分
拝観料300円
参考文献
財団法人滋賀県文化財保護協会編(2012)『戦国三武将と近江の城―信長・秀吉・家康の琵琶湖戦略―』(シリーズ近江の文化財006)
林博通・釜井俊孝・原口強(2012)『地震で沈んだ湖底の村 琵琶湖湖底遺跡を科学する』サンライズ出版
(伊藤愛)
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