新近江名所図会
新近江名所圖會 第351回 擬宝珠(ぎぼし)に残る江戸時代のおもかげ―瀬田の唐橋―
近江八景の一つ「瀬田の夕照」で知られる瀬田の唐橋(写真1)については新近江名所圖会第42回・第58回にて紹介されていますが、今回は少し違った視点から唐橋をご紹介したいと思います。
唐橋は古代より畿内と東日本を結ぶ橋として重視され、時の為政者たちによって維持管理されてきました。著名なところで言えば、天正3年(1575)に織田信長が瀬田城主の山岡景隆らに命じて橋を復興させています。(ちなみに、この時架けられた橋は本能寺の変の直後、明智光秀が安土城に入城するのを阻止するため、景隆によって焼き落されています。)
江戸時代になると橋の管理は膳所藩が担うようになりました。膳所藩治世の下、橋は何度も架け替えられています。一例として、幕末の文久元年(1861)の架け替えは皇女和宮が徳川家茂に輿入れするにあたって実施されたことが知られています。
◆おすすめポイント
そんな唐橋、現在はコンクリート製になっていますが、今も江戸時代の面影を残す部分があります。橋の欄干にある擬宝珠(欄干の親柱の上に設けられる飾り)を見てみましょう。
写真2の擬宝珠には「寛政五癸丑年」の銘文があります。寛政5年(1793年)の架け替え工事の際、擬宝珠に刻まれた銘文が現地に残されているのです。その他「明和九壬辰年」(1772年)、「文化元甲子年」(1818年)などの銘文を見つけることができました。私が判読できた限りでは、明和九年のものが最も古かったのですが、表面が摩耗して読みづらいものもあり、実際はさらに古い銘文が残されているかもしれません。それぞれの擬宝珠には紀年銘の他に「奉行」、「見廻」、「棟梁」など実際の工事に携わった人の名前も見受けられます。
個人的に興味深かったのが、写真3に示した擬宝珠です。天明5年(1789)の銘文が残されているのですが、その上から新たに「明治八年」(1875年)の銘文が刻まれていました。特に注目されるのは、「膳所城主…」の文字を擦り消した上から、「滋賀縣」と刻まれている点です(写真4)。江戸から明治へと時代が移り変わる中で、旧体制を否定しようとする意思の表れと見るのは考え過ぎでしょうか。
なお、明治以降の工事においても、引き続き擬宝珠には銘文が残されたようで、「昭和三十九年」、「昭和五十四年」など比較的新しいものも見受けられます。
このように見ると、擬宝珠は橋の装飾であるというだけではなく、江戸時代から現代に至るまでの唐橋の維持管理の歴史を物語る資料とも言えるでしょう。唐橋周辺の景色とともに、擬宝珠にも注目していただけたらと思います。
◆周辺のおすすめ情報
唐橋の西側にはもう一か所、膳所藩ゆかりのスポットがあります。新近江名所圖会第288回でも紹介された鳥居川の御霊神社です。ここには明治4年(1871)に膳所城の門が移築されています(写真5)。唐橋と同じく膳所藩ゆかりの見どころです。唐橋とセットで訪れてみてはいかがでしょうか。
(山口誠司)
◆アクセス
瀬田東ICから車で約15分
京阪石山坂本線 唐橋前駅から徒歩約6分