新近江名所図会
新近江名所圖會 第356回 道路に残る膳所城の名残り―大津市膳所城勢田口
大津市膳所にあった膳所城は、関ヶ原合戦に勝利した徳川氏が、諸大名に命じて築かせた「天下普請(てんかぶしん)」第一号の城郭です。しかし、明治時代の初期に取り壊されたため、現地へ出かけてもその姿がわからない城でもあります。
しかしながら、残された絵図や地形図を使えば、昔の姿を再現することができます。
今回は、かつて紹介された(「新近江名所圖会第208回 膳所六万石城下町の出入口」)膳所城勢多口について、地図を見ながらその変遷を紹介します。
膳所城勢田口(ぜぜじょうせたぐち:瀬田口)とは、膳所城下町の南出入口として築かれました。滋賀県立図書館所蔵の[膳所城御堀取調絵図(ぜぜじょうおんほりとりしらべえず)]によると、築城当初は堀と土塁そして橋によって防御された、曲輪(くるわ:防御施設で区画された城の一区域)のような施設でした(図1参照)。その中には番所と城門があり、人々の出入りを監視していました。膳所城廃城後も番所が残っていましたが(写真1)、平成18年(2006)に取り壊されています。
◆おすすめPoint
それでは、膳所城廃城後から現代にいたるまでの変遷を地図で見てみましょう。
膳所城廃城後は、土塁(どるい:主に土を盛って作った堤防状の防壁)や城門など交通の障害となる施設は撤去されました。明治42年(1909)の地図(図2)を見ると、堀や橋そして番所は昔のまま残されていることがわかります。
しかし、昭和30年代ころから湖岸部の埋め立てが始まって堀は埋められ、家が建てられました。昭和40年(1965)頃の地図(図3)を見ると、堀跡が宅地に変わっていますが、湿地(青色)となって残っているところもあります。
さらに、現地にただひとつ残っていた番所も、平成18年に取り壊されてしまいました。現在は、屈曲した道路だけが残り、かつて勢田口があったことを示すにすぎません(図4)。
各時代の地形図から勢田口の変容を見てみました。現代の地図から当時の姿を復原することはむずかしいように見えます。しかし、かつての姿を現代の地図の上に投影すると(図5)宅地や道路の境界線として残されていることがわかります。
このように、昔の資料(地形図や絵図)を使えば、今も残るわずかな痕跡から、かつての姿を復原することができるのです。
(神保忠宏)
◆周辺のおすすめ情報
勢田口総門跡から北東の方には膳所藩主ゆかりの本田神社があります。境内には現在でも見学できる数少ない膳所城に関わる遺構などがのこっています。(詳しくは新近江名所図会第329回参照)
◆アクセス
【公共交通】膳所城勢田口総門跡へは京阪電車石山坂本線粟津駅から琵琶湖側へ徒歩5分
※この付近は道幅が狭く車もよく通るので注意してください。