新近江名所図会
新近江名所圖會 第375回 弘文天皇の足跡をめぐる―大津市膳所茶臼山古墳(後編)―
前回は膳所茶臼山古墳(ぜぜちゃうすやまこふん)と大友皇子についての概要をご紹介しました。今回は伝「弘文天皇陵」としての膳所茶臼山古墳について具体的にみていきます。
◇伝「弘文天皇陵」としての膳所茶臼山古墳
それでは、実際に膳所茶臼山古墳に向かい、伝「弘文天皇陵」として見直してみることにしましょう。古墳は前方部を琵琶湖側に向けています(写真1)。麓からの道を進み、まず前方部に上ると、細長い平坦面にいたります。これが前方部の頂上です。秋葉神社の社殿があります(写真2)。
さらに、さらに進んでいくと、前に一段高くなった部分が見えてきます。これが前方後円墳の後円部にあたります。
後円部の頂上に上ると、四角く石積みを施した塚が5基配置されています。これが大友皇子に最後まで付き従った皇子の子供と舎人達の「葬り塚(ほうむりづか)」で、中央に位置する大きな塚が大友皇子の墓(写真3)、右手奥の塚が大友皇子の子供-大友与多王(よたのおおきみ)の墓と伝えられています(写真4・5、古墳に建てられた解説板「葬り塚」:大津東ロータリークラブによる)。ちなみに、私が見学に訪れた際には、いずれの塚にもお花が供えてあり、いまもなお手厚くお祀りがされていることがわかりました。
このような後円部頂の「葬り塚」の配置は、明治30年(1897)に刊行された『名蹟図誌近江寶鑑』の「滋賀縣滋賀郡膳所村 茶臼山古墳及石居神社法傳寺之圖」(図1)でも認められ、中央に「弘文帝陵」、その右側に「與太王(よたのおおきみ)墳」・「物部連麻呂(もののべのむらじまろ)墓」、東側には「舎人墓」2基が示されています。このころからほとんど変わらずに、現在に至っているようです。
さらに、この図には「茶磨山由緒」として、次のような記述があります(図2)。
「茶磨山ハ膳所ノ南西ニアル一小岳ニシテ、其形茶臼ニ似タリ。故ニ名ク。山上松樹鬱蒼タリ。其中ニ古墳五基アリ。滋賀寺(割注:今法傳寺ナリ)秘蔵旧託ノ要領ハ左ノ如シ。壬申秋七月二十三日、淡海勢多川西北粟津岡ノ南西少高山前に自薨。物部連麻呂舎人二員死ストアリ。(後略)」
蛇足ですが、この記述では、この場所を茶臼に似た形の岡とは認識しているものの、古墳時代の前方後円墳とはみとめていなかったことが分かります。ちなみに、ここに出てくる「法傳寺」は現在も古墳の麓に位置する大津市西の庄にあります。
さて、こうした伝承がいつまで遡るのか明らかではないので、この5基の「葬り塚」が真の弘文天皇陵であるかどうか確定することができません。
しかし、明らかなのは、少なくとも明治初め頃には、この場所が大友皇子の「葬り塚」として考えられており、残念ながら明治政府には正式な弘文天皇陵としては治定されなかったけれども、それ以降現在にいたるまで、地元の方々によって手厚くお祀りされていることです。このように、膳所茶臼山古墳は古墳時代の遺跡という側面とともに、それ以後の時代の遺跡という側面をもっています。
古墳として築造されて以来、地域のなかで、さまざまな形で大事な場所として意味づけられ、守られてきたともいえるでしょう。
◆おすすめポイント
新近江名所図会第311回でも紹介されていましたが、古墳からの眺望-正確には古墳に隣接する公園からの眺望はなかなかのもので、古墳の正面には、滋賀県の南半部をほぼ見渡すことができます。眼下には南湖が横たわり、その向こうには湖南アルプスから三上山あたりまで見通せます。視線を北西に移すと、比叡・比良の山並みもうかがうことができます。
◆周辺のおすすめスポット
【石居神社】名所圖會第361・362回で紹介しましたので、あわせてご覧ください。膳所茶臼山古墳の麓である、大津市西の庄にあります。天智天皇・大友皇子をお祀りしています。
◆アクセス
【自家用車】 国道1号秋葉台交差点すぐ、駐車場あり。
【公共交通機関】 JR膳所駅を降りて南出口から茶臼山公園まで徒歩20分程度、もしくは京阪中ノ庄駅から徒歩10分程度。
(辻川哲朗)