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新近江名所図会

新名所圖會第232回 将軍様の豪華ホテル-野洲市永原御殿跡

野洲市
永原御殿跡1
永原御殿跡(正面の竹藪が本丸跡)

江戸時代の東海道や中山道などの宿場には、一般の旅人が泊まる旅籠とは別に本陣が置かれました。本陣は、大名や幕府の役人など限られた旅人しか宿泊できない「VIP専用の宿泊施設」です。東海道草津宿の史跡草津宿本陣は、参勤交代で大名が宿泊した当時の姿を留めています。
格差社会であった江戸時代は、大名と比べても隔絶した権力を有していた徳川将軍が旅する場合にどんなランクの宿に泊まったと思いますか?それは大名達が泊まる本陣とはグレード・スケール共に段違いに豪華なものでした。江戸時代前期の将軍上洛では、将軍は名古屋城などの親藩・譜代の城や専用の御茶屋御殿で宿泊・休憩しました。御茶屋御殿とは、将軍専用の宿泊・休憩所として街道沿いに造られた臨時の御殿のことです。近江には永原御殿(野洲市)や伊庭御殿(東近江市)、水口御殿(水口城跡・甲賀市)、 柏原御殿(米原市)の4ヶ所に御茶屋御殿が設けられました。
今回紹介します永原御殿は、徳川家康が関ヶ原の戦いの直後に佐和山から安土を経て永原に至る下街道(朝鮮人街道)を凱旋して上洛したことから、この道を吉礼の道として、将軍以外の大名の通行を禁じるとともに自らの上洛の際に用いる御殿を関ヶ原の戦いの翌年(1601年)にこの地に設けたものです。

芦浦観音寺書院1
永原御殿の建物を移築したと伝えられる書院-芦浦観音寺書院(草津市:重要文化財)

永原御殿は、名前こそ「御殿」ですが、大名が泊まる本陣とは構造も大きく異なり、堀や櫓をもつ城郭でした。特に、寛永11年(1634)の徳川家光上洛では、本丸のほか、二の丸や三の丸が設けられ、以前の6倍の規模となります。工事は膳所藩主菅沼正昭を作事奉行とする幕府直営工事として実施され、延べ4万4千人もの大工が動員されました。改修後の本丸は2ヶ所の入口に櫓門を設け、曲輪の4隅を櫓が守る堅固な造りとなりました。内部には将軍の書院・休憩所、大台所など50棟あまりの御殿・建物が建てられ、三の丸には将軍の警護にあたる伊賀衆の宿舎も設置されました。
徳川将軍の上洛は寛永11年の家光の上洛を最後として、将軍上洛が幕末まで途絶えます。そして改修された永原御殿も貞享元年(1684)に廃止され、建物が売りにだされました。草津市芦浦観音寺の書院(重要文化財)や野洲市北の浄専寺の門は永原御殿から移築された建物と伝えられます。現在の永原御殿跡は、竹藪や民家・水田などとなっており、わずかに土地の区画や堀跡の水田に当時の面影を残すだけですが、堀跡に沿ってその外周を散策していただければ、規模の大きさを実感できると思います。

浄専寺門1
永原御殿の城門を移築したと伝えられる浄専寺の門(野洲市)

最後に、この将軍様専用の超豪華ホテルの一泊あたりの宿泊料金はいかほどだったと思いますか? 将軍達が利用した回数は、徳川家康が6回、秀忠が2回、家光が1回と、全部あわせてもたったの10回にしか過ぎません。造営費用や普段の維持管理費を考えると、宿泊料金は、想像を絶する額であったはずです。本能寺の変のような不測事態を防ぐためとはいえ、一晩の宿泊のためにお城を造るとは、さすが将軍様といったところでしょうか。(北原 治)

アクセス
【公共交通機関】JR東海道線野洲駅下車、野洲北口より近江鉄道バス木部循環線「江部バス停」下車北へ徒歩3分
【自家用車】国道8号線の野洲市小篠原交差点を北西方向(県道155号線)に曲がり、久野部交差点を右折。そのまま県道2号線を進み、江部交差点左折し、約800m進むと左手方向に永原御殿跡が見えます。

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