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新近江名所図会

新近江名所圖会 第100回 こちらが本家-唐臼山古墳-

大津市
大津市水明
小野妹子神社
小野妹子神社
唐臼山古墳
唐臼山古墳

『日本書紀』によると、推古天皇15年(607)7月に小野妹子(おののいもこ)を団長とする第2回目の遣隋使が派遣されています。隋の都である西安市に入った妹子が、有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる倭王の国書を提出したところ、皇帝煬帝(ようだい)は中華帝国を侮辱する内容に多いに不快感を表したとされています。しかし、妹子は煬帝に接見することができ、翌年4月に隋の国書を携えて、斐世清(はいせいせい)などの中国の使節とともに無事に帰国しています。妹子は、608年9月には帰国する斐世清とともに再び中国に渡り、翌年9月に帰国しています。その後、妹子はいくつかの功績により、冠位十二階の最高位である大徳冠となっています。このように、妹子は2度にわたる隋への渡海を果たして中国の政治制度を学んだ推古朝の第一級の外交官であるとともに、政治家でもあったといえます。
大津市北部の琵琶湖西岸一帯は、京都・大阪への通勤圏として多くの新興住宅地が広がっていますが、開発が進んでいるJR湖西線小野駅から北西方向の住宅街の一角に小高い森があります。住宅街にありますその一角は、小野妹子公園として市民の憩いの場となっています。その森の中に、「唐臼山妹子神社」の石碑を掲げる小さな祠があり、その裏に御神体として唐臼(からうす)山古墳が祀られています。この古墳の墳丘は盛土の流出が激しいため全体像ははっきりしませんが、西側では巨大な方形の石室の石材が数点露出しています。石室は、復元すると全長5.5m、幅1.6m、高さ1.2mの大きさとなりますが、これは大和朝廷の官人級の立派な石室です。この古墳の被葬者は小野妹子と伝承されていますが、一方で妹子の墓は大阪府南河内郡太子町にもあります。太子町内には聖徳太子廟や推古天皇陵などがあることから、妹子の墓も彼の地に比定されていると思われます。しかし、妹子は大津市小野生れの記録があります。さらに、唐臼山古墳からは7世紀前半の須恵器や土師器が出土していて、石室の構造もその頃の特徴を備えています。したがって、唐臼山古墳の築造は7世紀前半とすることができ、これは妹子の推定没年代である640年前後と矛盾しません。ですから、唐臼山古墳が小野妹子の墓に間違いないと私は考えています。

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小野道風神社

小野道風神社
小野道風神社

唐臼山古墳から西近江路に出て500mほど北上すると、左手の山腹に小野神社の飛地境内社である小野道風神社があります。祭神である小野道風(みちかぜ)は小野妹子から数えて7代目の末裔で、平安時代に和様の書の基礎を築いた書道家として、藤原佐理(すけまさ)・藤原行成(ゆきなり)とともに三蹟(さんせき)として名を残しています。道風は花札の「雨の二十」に描かれている人物で、蛙が柳の枝に飛びつく姿を見て発奮努力したといわれています。本殿は重要文化財に指定され、全国的も珍しい切妻造で平入の社殿です。また境内の左山手には、円墳と前方後円墳とがあります。

曼陀羅山古墳群・和邇大塚山古墳など

唐臼山古墳から西に500mほど歩くと、南北に延びる丘陵上に曼陀羅山古墳群があります。また北尾根の最高峰には、全長72mの前方後円墳・和邇大塚山古墳があります。和邇大塚山古墳は古墳時代前期に築造されたもので、古代豪族・和邇氏の首長墓とされています。そのほか、古墳時代後期に築造されたゼニワラ古墳や100基以上の群集墳も築かれていて、その幾つかは石室が開口していて見学することができます。

曼陀羅山古墳群南口
曼陀羅山古墳群南口
和邇大塚山古墳道標
和邇大塚山古墳道標

アクセス

【公共交通】JR湖西線小野駅から徒歩20分


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(濱修)

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