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新近江名所図会

新近江名所圖会 第97回 今も残る昔の道―信楽街道(源内道)―

大津市
大津市瀬田

道路は、私たちの生活に必要な公共施設の中で最も大きく変化したものでしょう。今の道路事情を思うと信じられないことですが、昭和時代前期までの日本の道路は、基本的に一部の大都市や国道を除き、人馬の通行を前提として整備された近世の道をもとにしていました。そのため、旧来の道路は急速に発達した車社会化に対応することができず、「日本の道路は信じがたいほどに悪い。工業国にしてこれほど完全に道路網を無視してきた国は日本の他に無い」(ワトキンズ・レポート:1956年)という状態となったのです。
この勧告を受けた日本政府は、道路特定財源制度を制定して道路改良の資金を創出し、車社会に合った道路の整備を行います。こうして、今日私たちが利用する快適な道路網が形成されたのです。その一方で、近世から続く道路は「改良」によって原型を失うか路線変更によって廃道となるため、昔ながらの道はわずかしか残されていません。
しかしながら、市街地の近くにあって気軽に利用できる昔ながらの道があることを御存知でしょうか? 今回は、そのような道の一つである「信楽街道(源内道)」を紹介します。

源内道地図(クリックで拡大)
第1図 源内道地図(クリックで拡大)

信楽街道は、大津市大萱から瀬田丘陵を越えて田上、そして信楽へ至る道路のひとつでした。この道を利用した上田上の故老の話によると、この道は信楽と大津・京都を結ぶ重要な道路で、長い間人や牛の背を借りて物資を運んでいたそうです(『上田上の生活体験談集成』より)。また、瀬田に住む人々は大萱から瀬田丘陵までの道を「朝倉道」、丘陵にある源内峠を越える道を「源内道」と呼んでいたようです。この道が開かれた時期はよくわかりませんが、後で説明する源内峠遺跡(7世紀)が「源内道」沿いに存在することを考えると、かなり古くから利用されていた道だったと考えられます。
第1図は、現在の地図に明治時代の信楽街道を投影させたものです。いわゆる「朝倉道」の部分は、道路改良や付け替えが行われて現代の道路(「学園通り」)に生まれ変わりました。「源内道」の部分は、びわこ文化公園の部分で変容が著しいものの、源内峠付近の道は昔の姿をとどめています。

それでは、「朝倉道」と「源内道」の見所を紹介しましょう。

分岐点
写真1

瀬田駅から学園通りを直進して一里山交差点を越えると、小さな分岐点が見えてきます(写真1)が、左側の細い道がかつての「朝倉道」で、右側の本線が新設された道路です。旧道は今のフォレオ大津一里山の敷地を通り、びわこ文化公園入り口付近から公園の敷地内に入り、源内峠遺跡に至ります。ここからから先が昔ながらの道が残されているルートです。道の幅2mほどの未舗装路で、雨の降る日は水が流れるため谷のようにえぐれています(写真2)。

峠道
写真2

長い間放置されていたため、かつては倒木などで通行が困難でしたが、源内峠遺跡を整備したサークル(源内峠復元委員会)の手で整備がおこなわれて昔の道が蘇りました。山道をしばらく歩くと、道路わきに木製の電柱が見えてきます(写真3)。

木製の電柱
写真3

かつては大萱と芝原を連絡していた架線があったのでしょう。そのまま歩くと道の最高所にあたる源内峠に到達し、そこから急な下り坂になって芝原集落に到達します。実際に歩いてみると源内峠遺跡から芝原まで30分ほどで行くことができました。
市街地にありながら気軽に峠道を体験する場所といえるでしょう。

おすすめPoint

長崎ちゃんぽん
長崎ちゃんぽん

「朝倉道」の後身である「学園通り」沿いに長崎ちゃんぽんのお店があります。長崎ちゃんぽんの名にふさわしく、山盛りの具材と太麺を使用しているので、私の腹では並盛で充分でした。お店の名は敢えて記しませんので、古道散策の際に探してみてください。

周辺のオススメ情報

源内峠遺跡
源内峠遺跡

新近江名所図会第23回で紹介されている源内峠遺跡です。平成23年度には、源内峠復元委員会の皆さんの手によって新たな見学施設が誕生しました。発掘調査で検出した遺構は埋め戻されて見ることはできませんが、ほぼその上に原寸大の製鉄炉検出模型と復元模型を製作して、製鉄の方法がわかりやすくなっています。みなさんもぜひご覧になってください。

アクセス

「朝倉道」「源内道」を歩く場合
JR琵琶湖線瀬田駅下車、芝原まで徒歩約90分。
「源内道」を歩く場合
JR琵琶湖線瀬田駅下車、バス「滋賀医大行き」瀬田公園停留所下車、芝原まで徒歩約45分。


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(神保忠宏)

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