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新近江名所図会

新近江名所圖会 第313回 山に残る「寺」と「城」と「採石場」-歓喜寺遺跡-

大津市
写真1:歓喜寺薬師堂
写真1:歓喜寺薬師堂

私どもが普段実施している発掘調査は開発事業に伴う場合が大半であるため、どちらかといえば平野部で行われることが多くあります。地中に埋もれた遺跡の姿を探るには、ほぼ発掘調査成果が不可欠であるといっても過言ではありません。一方、山の中にある遺跡では、当時の地形や構築物などが完全に埋没することなく、現況の地形から当時の状況を垣間見ることができる場合があります。
そこで今回は、当時の遺構が現地に残る大津市大物(旧志賀町)の比良山中腹にある、歓喜寺遺跡をご紹介したいと思います。歓喜寺についての歴史は古く、最澄によって延暦年間(782~805)頃に建立されたと伝えられ、弘安3年(1280)の裏書のある荘園絵図である『比良荘絵図』にも記載されています。絵図にも記載されることから比良山を代表する寺院のひとつであったと考えられますが、現在は、文禄元年(1592)に建立された「薬師堂」のみが法灯を伝えています(写真1)。寺域へと至る道沿いには、文化5年(1808)の紀年銘を持つ万人講の常夜灯が残ることからも、江戸時代以降も人々の往来が盛んだったことがわかります。なお、薬師堂までは舗装された林道を通ってたどり着くことができます。

◆おすすめのポイント
歓喜寺では寺院の遺構だけでなく、多様な遺構を現地で見ることができます。薬師堂付近の林道沿いには石垣を伴う寺坊跡と考えられる区画された複数の平坦面が並びます(写真2)。歓喜寺は戦国時代後期頃に城郭化された時期があったとみられ、連続する寺坊跡を分断するかたちで幅8~15mに及ぶ3条の大規模な堀切が残っています(写真3)。
また、寺坊跡は谷筋に築かれていますが、これらを見下ろす尾根上にある2つの小ピークを中心に山城が築かれています。山城部分では曲輪を部分的に囲う土塁や複数の小規模な曲輪をはじめ、小ピークをつなぐ尾根の鞍部に築かれた幅5mの堀切といった城郭遺構を見ることができます(写真4)。
さらに、谷筋にある寺坊跡から続く下方では、一見すると石垣のように石材が斜面や通路の両側に高く積み上げられている部分があります(写真5)。この部分は近代頃の採石場であったと推測されます。明治13年(1880)にまとめられた『滋賀県物産誌』には、この地域(旧志賀町域)の特産品として「石燈籠」や「石塔」などが挙げられており、歓喜寺遺跡の周辺も石材供給地のひとつであったようです。
寺坊跡の石垣は面を揃え、それぞれがうまく組み合うように積まれていることに対し、この部分では単に「積み上げただけ」という印象を受けますが、これは斜面の土留めと通路の確保とともに、割り出した石材のストックとしても積み上げられていたのではないかと考えられます。

写真2:寺坊跡の石垣
写真2:寺坊跡の石垣
写真3:寺坊跡を分断する堀切
写真3:寺坊跡を分断する堀切
写真4:山城部分に残る堀切
写真4:山城部分に残る堀切
写真5:斜面に積み上げられた石材
写真5:斜面に積み上げられた石材

◆周辺のおすすめ情報

歓喜寺遺跡の近くには、第170回で紹介されている江戸時代の治水工事によって築かれた「百間堤」や、水不足を解消するために掘られた隧道と推測されている「こうもり穴」といった近代遺産スポット、および第250回で紹介された比良山系最大級の規模を誇る中世の山寺跡であるダンダ坊遺跡などがあります。ちなみにダンダ坊遺跡でも、寺坊跡の縁辺下方部を中心に採石を行っていたとみられる矢穴の残る岩盤や割り出された石材があります。歓喜寺とあわせて訪ねられてはどうでしょうか。
(小林裕季)

◆アクセス
【公共交通】JR湖西線比良駅から徒歩約40分
【自家用車】湖西道路志賀ICから車で約10分

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