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新近江名所図会

新近江名所圖會 第286回 蜂屋集落の心のより所2―石造阿弥陀如来像―(栗東市蜂屋)

栗東市

当協会の主な仕事は、遺跡の発掘調査です。発掘調査では、建物跡や溝跡などの地面に残された過去の人々の活動の痕跡:遺構から、土器や石製品などの遺物が見つかります。これらの遺物を、これまでに行われた様々な発掘調査やそれらを基にした研究成果から構築された年代観にあてはめ、その遺構の時期(厳密にはその遺構が埋まった時期の上限)を決めていくことになります。遺物には、素材により土器や石製品のほか木製品や金属製品などがありますが、木製品や金属製品は埋まっていた条件が良くないと(例えば木製品なら水分が多い土壌であることなど)、現代まで良い状態で残らないことも多いようです。その一方で、とくに石製品は、その素材の堅さから、もちろん割れることもありますが、どのような条件下でもそのままの状態で残ることが多いようです。

昔からの石製品という意味では、地面の下ではなくても気を付けて探してみると、多くの地域で石碑や石仏などの石造物を見出すことができます。これらの石造物のように石に刻む、あるいは石を加工することの目的の1つは、後世に永く伝えるためと考えられますが、仏像を刻むということは、信仰心からまさにそのような意識が働いていると思います。栗東市にも、国指定史跡狛坂摩崖仏をはじめとして数多くの石仏がありますが、今回紹介する蜂屋の石造阿弥陀如来像もまた、厚い信仰心から造立されたと思われるものです。

写真1 蜂屋集落の石造阿弥陀如来像
写真1 蜂屋集落の石造阿弥陀如来像
写真2 中ノ井川にはみ出す石造阿弥陀如来像と石灯籠
写真2 中ノ井川にはみ出す石造阿弥陀如来像と石灯籠

私は現在、栗東市蜂屋を中心に所在する蜂屋遺跡の発掘調査に従事していますが、この石造阿弥陀如来像は、発掘調査事務所から徒歩5分くらいと近い場所にあります。蜂屋集落はその中央を貫く道路を中心にほぼ東西方向に細長く広がっていて、石造阿弥陀如来像は集落の東端付近に位置しています(写真1)。付近には、浄土宗寺院の不遠山西方寺や伊勢講の集会所である行者堂、第266回で紹介した宇和宮神社の御旅所など、信仰に関連する施設がいくつも集まっています。蜂屋集落を中央に貫く道路は、とても道幅が狭いのですが、自動車の抜け道に利用されることが多く、交通量が少なくありません。そのためか、石造阿弥陀如来像も、道路に沿って流れる中ノ井川の上に、5基の石灯籠とともに文字通りはみ出して安置されています(写真2)。

◆おすすめPoint
阿弥陀如来像は、高さ約100㎝の花崗岩製の板の表面に、蓮台に立つ約50㎝の体躯が刻まれています。しかし、もともと彫りが浅いことと摩滅が進んでいることもあり、合掌しているほか、顔の表情などの細部は観察してもよくわかりません。周囲を板石などで囲ってセメントで固定しているのも、風雨による摩滅がこれ以上進まないようにという配慮なのでしょう。

栗東市教育委員会による解説板が隣接して設置されていますが、そこには、「像の周囲及び裏面にある刻銘によると、この石仏は願阿弥陀仏という人が仁治2年(1241)に西方浄土に往生を願って造立したもので、その際、樫井温田の二条八里二坪の田地二段と三条七里八坪の一段を石仏の供養田料として寄進したとあり」と書かれています。確かに、阿弥陀如来像の左右には文字が刻まれているようですが、ひっきりなしに往来する自動車にぶつからないかと気になる私には、はっきりとは読み取れませんでした(写真3)。また、中ノ井川に降りて裏面を観察しますと、上部の一段盛り上がった部分の下に、確かに「仁治二年」と刻まれているのがわかりました。その下にも2・3文字刻まれているようなのですが、これも摩滅が進んでいるためもあり、はっきりと読めませんでした(写真4)。

写真4 石造阿弥陀如来像裏面
写真4 石造阿弥陀如来像裏面
写真3 石造阿弥陀如来像近影
写真3 石造阿弥陀如来像近影

仁治2年は鎌倉時代前期であり、平易な鎌倉新仏教が民衆たちに広まっていった時期にあたります。すぐ東側にある浄土宗寺院の西方寺は開基が江戸時代前期の元禄4年(1691)ということですから、それよりも450年も前にすでに、篤志家によりこの阿弥陀如来像は造立されていたということになります。もしかしたら、この石造阿弥陀如来像があったからこそ、西方寺はこの地に建立されたのかもしれません。鎌倉時代における阿弥陀信仰を知るうえで、とても貴重な資料といえます。なお、この石造阿弥陀如来像は、昭和50年(1975)に栗東市指定文化財となっています。

◆アクセス
【公共交通機関】JR琵琶湖線手原駅下車、西へ徒歩15分
【自家用車】国道1号線上鈎交差点から北へ5分

(小島孝修)

※石造阿弥陀如来像 昭和50年10月1日 栗東市指定第48号
この石仏は、高さ約98㎝の花崗岩のほぼ中央に、蓮台上に立つ像51.5㎝の阿弥陀如来立像を彫り出したものである。全体に摩滅が進み、彫りも浅いため細部はよくわからなくなっているが、像の周囲及び裏面にある刻銘によると、この石仏は願阿弥陀仏という人が仁治2年(1241)に西方浄土に往生を願って造立したもので、その際、樫井温田の二条八里二坪の田地二段と三条七里八坪の一段を石仏の供養田料として寄進したとあり、鎌倉時代における阿弥陀信仰を知るうえにおいて貴重な資料である。

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