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新近江名所図会

新近江名所圖會 第354回 地名の由来になった遺構が残る遺跡―大津市石居廃寺跡

大津市
写真1 石居廃寺跡
写真1 石居廃寺跡

琵琶湖から流れ出す瀬田川には、琵琶湖の水位と下流に流れていく水量を調節する瀬田川洗堰(あらいぜき)が設けられています。この洗堰から東側へ1.6㎞ほどの距離に、石居廃寺跡(いしずえはいじあと)は位置しています。その場所は瀬田丘陵の南側で緩やかに傾斜する斜面地にあたり、麓とは約6mの高低差があります。前面には信楽を源に流れてくる大戸川(だいどがわ)が横断しており、この河川によって形成された田上(たなかみ)平野がその向こう側に広がっています。遺跡へは大戸川にかかる石居橋から北側に向かって集落の中を伸びる道を上っていきます。200mほど進むと右側に斜面地を下る道が現れ、この道を少し進むと史跡として保存された遺跡の場所に到着することができます。
飛鳥時代初め(6世紀末から7世紀初め)に、日本で初めての寺院である飛鳥寺(奈良県)が造営されます。その後、寺院の数は増えていき、特に白鳳時代から奈良時代(7世紀後半から8世紀前半)にかけて各地で多くの寺院が造営されています。石居廃寺は7世紀後半に造営されたとされ、このような時代の寺院のひとつとして知られています。

写真2 礎石(中央のくぼみは柱を固定する加工)
写真2 礎石(中央のくぼみは柱を固定する加工)

おすすめPoint
史跡として保存されている場所には、建物の基礎となる土盛りで造られた基壇(きだん)と柱を支えるために設置された礎石(そせき)19基がその上に残されています。礎石には、円柱座と呼ばれる突出した円形の段が作り出されています。段の上面は平らなものがほとんどで、南側(道路側)に並ぶ礎石のひとつにのみ柱を固定するための加工がほどこされたものがあります。直径が50㎝から60㎝ほどもある円柱座の規模からは、太い柱が建っていたことがうかがえます。配列などからすべての礎石が当時の位置を留めているわけではないようですが、東西に6基、南北に4基の礎石が並ぶ建物で、寺院の中心的な建物である金堂であったと推定されています。
この遺跡に関連した出土品は、屋根に使われた瓦のほか、塼仏(せんぶつ)、塑像(そぞう)片、泥塔(でいとう)などが発見されています。塼仏は、仏像などを彫り込んだ型に粘土を押し当てて型抜きしたのちに焼き固めて作ったものです。多くはこの寺院が造営された白鳳時代のもので、当時の姿を偲ばせるものです。粘土を使って作られた泥塔については平安時代後期のもので時代が新しく、この寺院が存続していた時期を示すものです。
この場所に残る礎石は、「石居」という地名の由来になったと伝えられています。大きな礎石の存在は、出土品とともに当時の寺院をうかがわせる貴重な資料といえます。

写真3 瀬田川洗堰
写真3 瀬田川洗堰

周辺のおすすめ情報
瀬田川洗堰は明治38年に完成した南郷洗堰の2代目として、昭和36年に建設されたもので、令和3年に60周年を迎えた施設です。(新近江名所圖会第315回) 一部が残る南郷洗堰とともに、琵琶湖の水をコントロールする重要な施設を見ることができます。この施設の東側にある「水のめぐみ館 アクア琵琶」には、洗堰の模型が展示され、その機能や操作の様子などを知ることができます。このほかにも、琵琶湖・淀川の利水や治水に関することや琵琶湖の水環境に関することなどを展示や体験などによって学ぶことができます。

<参考資料>
・小笠原好彦、田中勝弘、西田弘、林博通(1989)『近江の古代寺院』近江の古代寺院刊行会

アクセス
【公共交通機関】JR東海道本線「石山」駅から帝産湖南バス「石居町」下車 徒歩約3分

(中村智孝)

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