記事を探す

新近江名所図会

新近江名所圖會 第358回 辻村鋳物師の絆のあかし―栗東市辻、井口天神社の銅製鳥居―

栗東市
写真1_井口天神社 銅製鳥居
写真1_井口天神社 銅製鳥居(栗東市・辻)

今回の名所図会では、滋賀県内では類例の少ない銅製の鳥居を御紹介してみようと思います。
かつて近江には、今回御紹介する栗東市辻をはじめ、東近江市長町(おさちょう)・同市五個荘三俣(ごかしょうみつまた)町・同市八日市金屋(かなや)・高島市宮野などで、多くの鋳物師(いもじ)が活躍していました。鋳物師とは、鋳物を造る職人のことで、日常の生活用具、特に鍋・釜などの煮炊容器を造っていたほかに、仏像・梵鐘などの鋳造にも関わっていました。近江の鋳物師のなかでも特に辻の鋳物師(彼らのことを以下では「辻村鋳物師」と記します)については、江戸中期の百科辞典である『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』の「鋳冶」の項に、
「鍋釜の冶工は、河州(かしゅう)我孫子(あびこ)村(現在の大阪市住吉区南東部、筆者注)より始る、江州の辻村これに次ぐ」と記されており、江戸時代の日本を代表する鋳物師だったと認識されていたことがわかります。

写真2_銅製鳥居(アップ)
写真2_銅製鳥居(アップ)

辻村鋳物師は江戸時代になると全国各地に出職(でしょく:本拠地から離れた地域に出かけて仕事をする。出職の一形態が出稼ぎ。)・出店(でだな:本拠地から離れた地域に店を出す)し、活躍の場を広げます。鍋釜を諸国に運ぶ運送コストを抑えるために各地に出職・出店するようになったものと考えられていますが、いっぽうで鍋釜の製造・販売以外に、醸造業や伊吹艾(もぐさ)をはじめとした様々な製品を取り扱う者も現われたようです。彼らの活躍は、城下町や新興都市における新しい産業の担い手として期待されたことでしょう。
おすすめPOINT
さて、このように出職・出店した鋳物師の代表が、江戸に出店した「釜七」と呼ばれた田中七右衛門と「釜六」と呼ばれた太田六右衛門です。七右衛門・六右衛門はともに、享保2年(1717年)、幕府から「御成先鍋釜御用(おなりざきなべがまごよう)」を命ぜられるなど、江戸時代を代表する鋳物師として名を馳せます。そして、二人の代表作のひとつが、今回御紹介する辻村鋳物師の記念碑ともいえる井口天(いのくちてん)神社の銅製鳥居です(写真1・2)。
井口天神社は辻村の鎮守として、諸国に出職・出店した辻村鋳物師たちの信仰を集めていました。銅製鳥居は元禄7年(1694年)、田中七右衛門尉藤原重次(釜七)と太田近江大椽(だいじょう)藤原正次(釜六)が大願主兼鋳物師となり、江戸深川において鋳造したもので、左右の柱には関東に出居(出職・出店した地に居ついた)している氏子をはじめとする計229名の寄進者たちの名が刻まれており、まさに辻村鋳物師の結び付きを示す一大記念碑といえます(写真3・4・5)。
現在の栗東市辻では、辻村鋳物師の系譜を引く鋳物業は昭和30年代後半を最後に途絶えてしまい、現在、操業はされていません。しかし、各地に出職・出店した鋳物師の末裔の中には、現在も辻村鋳物師との関連を謳われている方もおられ、その系譜は現代社会の中でしっかりと根付いているのです。

写真3_鳥居建立年(元禄七年八月)
写真3_鳥居が建立された年(元禄七年八月)が刻まれています
写真4_鋳造者兼願主の代表
写真4_鋳造者兼願主の2人の名前が中央に見えます
写真5_柱に刻まれた関東に出居する氏子たち
写真5_柱に刻まれた関東に出居する氏子たち

アクセス
JR守山駅、JR手原駅からともに徒歩約35分。付近に駐車場はありません。
(松室孝樹)

周辺のおすすめ情報
「阿波屋清重(あわやせいじゅう)」:井口天神社から南東方向に新善光寺(「新近江名所図会第319回」)があり、かつて、その善光寺の参道で売られていた名物の「善光寺ういろ」を今も看板商品として作っている和菓子屋さんが井口天神社から南西に歩いて7~8分のところにあります。江戸文化年間創業というこのお店では、当地・辻に因み、辻村出身で千利休のお抱えになった釜師(かまし;茶道で使う茶釜を製作する職人)・辻与次郎の作という釜を模した焼きまんじゅうも作っているとか。そのほかにも地元にまつわるお菓子があるそうですが、常に揃っているとは限らないので、行かれる際にはお店に確認してください。(火曜休・℡077-551-4855)

Page Top