新近江名所図会
新近江名所圖會 第435回 信楽の地にて祈り、病苦を取り除く -小西久兵衛が紫香楽宮跡に遺したもの-
新型コロナウィルス感染症が猛威をふるい始めたのは、平成から令和にちょうど代わった頃。最初は海の向こうの出来事で自分たちには関係ないことと安心していたら、令和も2年目に入る頃にはマスク探しに奔走する羽目となり、まもなくすべての活動が制限され、鈍色の低い空に覆われたような日々が長く続くこととなってしまいました。2年ほど前からいちおうの収束はみせているものの、完全に終わったわけでなく、そして私たちはあの辛かった日々を、早くもなかったかのようにふるまい、忘れようとしています。
今回は医療と歴史のかかわりということで、史跡に遺された足跡をひとつ御紹介したいと思います。
甲賀市信楽町に所在する史跡紫香楽宮跡(内裏野地区)やその周辺の遺跡については、この連載でもいく度か取り上げられています(第80回・第115回)。現在では宮中心部は宮町遺跡(宮町地区)であることが確定しており、一部は史跡公園として整備されています。そして、内裏野地区については、大量の礎石の存在や礎石の配置状況から最初に大仏建立を企てた甲賀寺の可能性が考えられていましたが、平成になって行われた確認調査の結果から、聖武天皇平城還都後の天平17年(745年)から延暦4年(785年)までの40年間続いた、近江国分寺のものであるとする考え方が出ています(第115回参照)。
その内裏野地区ですが、南からの参道を登っていくと最初に金堂跡に着きます。その金堂跡の中央北寄りに小さな社殿が建てられています(写真1・2)。鳥居の扁額には「紫香楽宮」と記されており、祭神は聖武天皇であることを窺わせます。


社殿脇の標柱には「寄進 社殿改築 大阪道修町 小西久兵衛」「昭和十二年五月」とそれぞれ刻まれていることから、この社殿が昭和12(1937)年に大阪道修町の小西久兵衛なる人物によって寄進されたことがわかります(写真3・4)。


内裏野地区は大正15(1926)年の史跡指定ののち、昭和5(1930)年になって肥後和男らによって初めて発掘調査が実施されました。調査後は、昭和7(1932)年9月から同12(1937)年3月にかけて滋賀県による標識や木柵の設置、遺構保存用の置砂などの簡易な整備事業が行われています。社殿は、これらの整備事業が完了したのちに建てられたようです。
さて、この小西久兵衛という人物ですが、じつは高島市白鬚神社の湖中に浮かぶ大鳥居を寄進した人でもあります(現在の大鳥居は昭和56(1981)年に再建されたもの)。
明治2(1869)年、大阪船場の薬屋街として有名な道修町に生まれ、家督を継ぐと「次亜燐」という滋養強壮薬で大成功を収めます。その後の彼の足跡を辿ると、私費で学校経営に乗り出すとともに(現在の学校法人朝陽学園がその系譜を引いています)、関西を中心とした神社仏閣に多くの寄進を行うようになります。今回に関連する寄進について、有名なところでは大阪市天王寺区の一心寺(浄土宗)の境内にある「大正八九年流行感冒病死者群霊」(スペイン風邪死者慰霊碑)や、県内では今回ご紹介する紫香楽宮金堂跡の社殿や白鬚神社の鳥居のほかでは、多賀大社手水舎(昭和6年)・荒神山神社拝殿(昭和8年)・多賀大社二の鳥居(昭和13年)などを寄進しています。ただし、寄進について系統だった文書として残されているわけではないので、まだ知られていない物件が残されている可能性もあります。
さて、話を紫香楽に戻しますが、小西久兵衛はなぜこの場所に社殿を寄進したのでしょうか。これについては彼の生業が大きく関わっていた可能性があります。
紫香楽宮に遷都したのは聖武天皇ですが、聖武天皇あるいは后である光明皇后について、特に戦前にもっとも人口に膾炙していた逸話といえば、やはり光明皇后の施浴伝説だったのではないでしょうか。かなり乱暴な要約ですが、光明皇后が奈良法華寺の浴室で千人の身体を平等に洗い流すと誓い、最後の一人がひどくただれたハンセン病患者だったのですが、その膿まで吸い取ったところ、その患者は金色の仏となって消え、紫雲がたなびいたという逸話です。
施薬院(医療施設)・悲田院(救済施設)を開き、貧しい病院に無料で薬を与え治療を行うといった施策を行った聖武天皇・光明皇后が開いた紫香楽宮は、薬種商という医療従事者であった小西久兵衛からみれば、医療という側面からも顕彰(ここでは祭祀の対象ですが)するべき存在であり、だからこそ社殿を寄進したのでしょう。
彼が具体的にどのような経緯で(人的な繫がりなど)、この場所に社殿を寄進するに至ったのか、残念ながらそれを示す史料を確認することはできませんでした。なにかの機会に目にすることができたならば、ぜひとも読んでみたいものです。
■関連スポット
小西久兵衛関連ということで新ネタ情報をご紹介します。隣県(府)の京都市に未だ紹介されていない小西久兵衛寄進鳥居を偶然発見しました(写真5・6・7)。



京都駅前を南北に抜ける烏丸通を二条まで行き、西に一筋目が両替町通。そのすぐ西側に現在は閉まっていますが、二条薬業会館という昭和モダンな2階建ての建物があります(閉業)。その建物と西側の薬局に挟まれたわずかな空間に薬祖神祠という小さな神社があります。祭神は大己貴命・少彦名命・神農・ヒポクラテス(!)という少し変わった神様の組合せですが、薬にちなんだ神様たちです。二条界隈は京都における薬種問屋街で、大阪の道修町のような役割を果たしており、小西久兵衛も商売上の付き合いがあったようで、その関係から別の場所にあった神社をこの場所に整備し直した際に、鳥居を寄進したようです。
ちなみにこの鳥居は明治39年(1905年)に寄進されたもので、現時点で判明している小西久兵衛の寄進物件で最古のものとなります。
滋賀県/紫香楽宮跡へのアクセス
【公共交通機関】信楽高原鐵道紫香楽宮跡駅下車徒歩約15分
【自家用車】新名神高速道路「信楽I.C.」より北西へ2分、駐車スペースあり
(調査課 松室孝樹)