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新近江名所図会

新近江名所圖絵 第190回 小谷神社石造狛犬から浅井三代の城ー小谷城をしのぶ

長浜市
写真1小谷神社石造狛犬
写真1小谷神社石造狛犬

第88回で、伊藤愛さんが「浅井三代の城―小谷城」というタイトルで、城と浅井氏との関係について書かれています。今回は、その驥尾に付して、当館で最近立て続けに展示させて頂いた浅井氏ゆかりと思われる石造狛犬を紹介し、小谷城の忘れられた歴史に思いを馳せることにいたしましょう。
小谷城のあった小谷山山麓に、真言宗小谷寺と並んで小谷神社が鎮座しています。同社ははもともと小谷山中にあったと伝え、称名寺文書によれば、豊臣秀吉から100石を寄進されたといいます。この狛犬は近年まで、誰に注目されることもなく、当社境内地に雨ざらしのまま置かれました。いまから20年ほど前、現地を訪れた際に気づき、県内の石造狛犬の中でもとりわけ古様な様式を示すことに一驚を喫したものでした。そこで、筆者の当時の勤務先であった県立琵琶湖文化館で、平成14年に開催した「動物の造形」展の図録に写真を掲載し、注意を喚起しました。その後、当館で開催した平成25年春の「しのぎをけづり、鍔をわり」展、26年春の「安土城への道」展に二年連続でお出まし頂き、

写真2小谷神社石造狛犬(阿形)
写真2小谷神社石造狛犬(阿形)

ようやく歴史マニアや城好きの方々にも認知されるようになったようです。なお現在は、幸いなことに小谷城址近在に建設された小谷城戦国歴史資料館に保管されるに至っています。
さて、この狛犬は台座共一石彫成で、材は越前笏谷石(しゃくだにいし)です。笏谷石とは、福井市足羽山(あすわやま)山麓の通称笏谷地区で採掘される良質の凝灰岩のことで、やや青味がかって美しく、緻密・軟質で加工に適しているため、古くから石造物の素材として用いられてきたものです。特に16世紀になると、一大石材産業として発展し、石仏・石塔から狛犬、さらに日用雑器に至るまで、多様な製品に加工され、日本海海運などによって各地に流通しました。滋賀県では、天文19年(1550)銘大津市西教寺六地蔵石仏を最古に、16世紀後半から遺品が確認され、狛犬もまた十数躯の作例が遺存しています。狛犬は文禄3年(1594)在銘の大津市若宮神社像はじめ、紀年銘遺品も五躯管見に上っています。
小谷の狛犬は、二躯ともに欠損個所が多く、阿形は両前肢と台座前半部、上顎を中心とする面部の一部を失い、吽形は四肢と台座をすべて欠失します。そのため、法量は一部しか計測できませんが、それでも阿形はかろうじて自立し、像高46.5㎝を計測します。各部形状を見ると、たてがみは阿吽共すべて先端を巻く毛束で、阿形は一段12本、吽形は同じく15本を数えます。また、磨滅によってその数は不明ですが、比較的小振りの顎鬚を彫出しています。特に注目されるのは、両前肢の付け根の巻毛を2本ずつ表現することで、これは在銘最古に当たる永正12年(1515)銘福井・春日神社像以外では管見に上らず、定型化する以前の古式な姿と言えそうです。

写真3小谷神社石造狛犬(吽形)
写真3小谷神社石造狛犬(吽形)

先端が大きく蜷局状に巻く3条の尾や、力強く開けた阿形像の口などと相俟って、無銘ながら県下に遺存する他の諸例よりも古様な形式を備え、浅井氏滅亡以前に制作されたものと見做されます。そして、近江への笏谷石文化移入ルートの最も早期の事例ともなっているのです。
それもこれも、越前朝倉氏と浅井氏との密接な同盟関係のなせるわざと考えられるでしょう。小谷城址の出土品の中には、やはり笏谷石製のバンドコ(火箱)も含まれており、これもまた同様に、両家の結びつきを物語る貴重な資料となっています。
周辺のおすすめ情報やアクセスは第88回をご覧下さい。


(山下 立)

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