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新近江名所図会

新近江名所圖会 第191回「石の長者」木内石亭ゆかりの燈籠 幸神神社(大津市下阪本四丁目)

大津市

大津市札の辻で東海道と分岐し、琵琶湖西岸を通り敦賀までを結ぶ西近江路。全長70余kmのその街道は、北陸と京・大坂(大阪)を結ぶ主要街道として古くから多くの人々に利用されてきました。
街道の途中、大津市下阪本の町並みに入ると、街道と藤ノ木川が交差する傍らに小さな神社-幸神(さいのかみ)神社があります(写真1)。足早に通り過ぎてしまうと見落としてしまいそうですが、街道に面した神社の入口には2基の燈籠があり、これが今回ご紹介する、近江が生んだ稀代の奇石蒐集家、木内石亭(きのうち せきてい 1724~1808)が寄進した燈籠です。

写真1幸神神社
写真1幸神神社

木内石亭は江戸時代中期の奇石蒐集家であり、日本考古学の先駆者の一人ともされています。当時から「石の長者」と呼ばれ、彼とその保有するコレクションは、当時観光案内書としても人気を博していた地誌『東海道名所図会』に神社仏閣・旧跡などと並び紹介されているほどでしたが、彼はたんなるコレクターの域にとどまらず、蒐集した石を分類し、その性格・用途を推測するなど、趣味の世界を学問の世界にまで高めていったとして評価されています。

ここで、石亭の生涯を簡単に振り返っておくと、彼は享保9(1724)年に滋賀郡下阪本村(現在の大津市下阪本)の拾井家に生まれました。母は栗太郡北山田村(現在の草津市北山田)で膳所藩郷代官を務める木内家の出身でしたが、祖父に継嗣がなかったことから、孫の石亭(幼名は幾六)を養子に迎えます。石に対するただならぬ執着(偏愛)は11歳の頃からだったと自著『雲根志』で告白していますが、祖父の許への養子縁組もこの頃に行われたものと考えられています。
さて、木内家の惣領となった石亭ですが、20歳前後の頃に「貧吏の罪」に連座し禁錮刑に処せられています。事件の具体的な内容についてはわかっていませんが、膳所藩内の権力闘争に起因するものだったと考えられています。3年間の禁錮の間、連座した同僚達が病で次々に死んでいくなか、石亭と妻は石を弄んで健康に過ごした、とされています。この事件にともない、木内家は改めて養子を迎え、石亭は分家の扱いとなります。その背景には、石亭が木内家の惣領としては適格者ではないという判断が働いたのかもしれません。いずれにせよ、以後の石亭は木内家の惣領という責務から放たれ、「石に志し」、学問の研鑽に励みます。そのようななかで彼は、当代の知識人である木村蒹葭堂・谷川士清・平賀源内らと交流を結ぶとともに、各地の蒐集家らともネットワークを結び、奇石蒐集の幅を広げていきます。
石亭は85年におよぶ生涯で、2,000~3,000点の「奇石」を蒐集したと考えられています。これらの奇石の内容は石器・鉱物・化石など多岐に亘りますが、彼は先ほど述べたようにたんに石を集めるだけでなく、それらを分類し、当時の水準なりに機能・性格などについて科学的に解釈している点で画期的だといわれています。このような研究方法はまさに、明治以降、ヨーロッパからもたらされた「考古学」という学問と手法的には共通しており、石亭の研究方法の先見性を窺うことができます。
さて、このような生涯を送った木内石亭ですが、晩年に寄進した幸神神社の燈籠(写真2)には、以下のような銘文が記されています(写真3)。

写真2幸神神社灯籠
写真2幸神神社灯籠

小子年八十余、老いぬと雖も、益々壮(さかん)にして、業全く名栄ゆ。実に斯(こ)の神の威に依る。性石を好み、珍奇なるもの家に満てり。之を弄(もてあそ)び天を楽しむは、世に知らるる所なり。今、木内氏を冒(おか)すと雖も、もと社前拾井の家に生まる。
老筆、書を題して神に献燈す。後来の二氏の子孫、永く昌(さか)え、家運、燈光とともに聯(つらな)って輝くを是れ願うなり。(原文漢文)
文化二年大歳次乙丑秋八月
木内小繁藤原重暁

写真3灯籠の銘文
写真3灯籠の銘文

文化2(1805)年、石亭82歳の時に寄進した燈籠ですが、80歳を超えてなお元気なのは、生家拾井家の氏神である幸神神社のおかげであるとともに、拾井・木内両家の繁栄を祈願して燈籠を寄進したことが記されています。また、自分が石を好み、奇石が家中に満ち、これらを手に取り心ゆくまで調べ、楽しむ様子は、世間も知っているところだろう、と自分が世間からどのように評価されているかということまでも客観的に記しているあたりは、風格すら感じさせます。

木内石亭は己の信じるままに、また、与えられた境遇を生かして、生涯を通じて石を愛で続けました。このような生き方について肯定的・否定的にとらえるか、意見の分かれるところだと思います。しかしながら、このような人物が現れなかったら学問の進展はなかったでしょうし、やや視点を変えれば、このような人物が存在することを許容していた江戸時代中期から後期にかけての社会は、それだけ成熟した社会だったことを示しているともいえます。石亭のコレクションは彼の没後散逸してしまいましたが、彼の寄進した燈籠がその生涯を伝える歴史の証人として、今日も路傍に立ち続けています。

(松室孝樹)

【アクセス】
京阪電気鉄道石山阪本線松ノ馬場駅から徒歩15~20分。
JR湖西線比叡山坂本駅から徒歩15~20分

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