新近江名所図会
新近江名所圖会 第122回 「びわ湖」と向き合う大貝塚 -石山貝塚その2-
今回は第10回でご紹介した石山貝塚の続編です。もう少し詳しく、この貝塚の様子をみながら、「びわ湖」と人々との関わりについて考えてみましょう。
石山貝塚は、びわ湖の南端、瀬田川の河口部の西岸に位置しています。これまでに実施された多くの発掘調査によって、びわ湖との関わりを示す様々な資料が見つかっています。「びわ湖での本格的な漁撈の始まり」を、最も直接的に示す資料としては、貝塚から出土した動物遺存体が挙げられるでしょう。貝類はもちろん魚類骨や爬虫類骨などが見られます。貝類としては、圧倒的にセタシジミが多く、全体の8割近くを占めていて、次いでナガタニシが1割強を占めています。魚類骨としては、ナマズ・コイ・ギギ・フナが多く見られますが、特にナマズの仲間が圧倒的に多いようです。また、爬虫類骨としてはスッポンが見られます。それから興味深いのは、鳥類骨としてハクチョウが散見されることでしょうか。いずれもびわ湖やその周辺で現在でも見られる生物たちです。
もちろん、これらの魚・貝類以外にも、たくさんのシカやイノシシの骨、それからタヌキ・ウサギ・ムササビといった小動物などの骨も見つかっています。石山貝塚の周辺には、現在の地形から推測しても、おおよそこれらの陸棲哺乳類も十分に獲得できる条件は整っていたのでしょう。
さて、これらの動物骨や貝殻は、当時の縄文人たちが主に食糧として食べた残りかすと考えられるでしょう。貝層の厚さは約1.5m前後、厚いところでは2mを超える地点もあったようです。その堆積量の多さから、一見して大量に貝などを消費していた、とも考えがちです。しかし、貝層から出土した土器などの様相に基づいて、現時点での年代観や年代幅を整理すると、1,000(~2,000)年ぐらいの間に堆積した結果だ、という可能性も考えておく必要はあります。
魚や貝などの水産資源をヒトが活用するということそのものは、ヨーロッパやアジア全域で見れば、実は4万年前頃からすでに始まっていることがわかってきています。大量のマグロの骨が見つかった事例や、貝殻に穴を開けビーズ様に細工をしたものがまとまって見つかった事例など、各地で散見されています。日本では、東京都前田耕地遺跡で、縄文時代草創期の住居跡と考えられる遺構の床面から大量のサケの骨が見つかっています。ですから、すでに縄文時代が始まる頃には、河川などでの漁撈・採集について、何らかの知識・技術を持っていた可能性を十分に指摘できます。
しかし、改めて「びわ湖」と人々がじっくりと向き合ったのはいつからなのか?と考えてみると、やはり石山貝塚が始まった頃だと考えることが、現状では自然でしょう。技術的な、あるいは知識としての漁撈といった次元ではなく、あくまで「びわ湖の幸を得る」という価値観の始まりです。もちろん見方や立場にもよりますが、びわ湖周辺に暮らす文化としての、まさにその始まりが石山貝塚にある、と言うこともできるのではないでしょうか。
さて、では当時の人々は、なぜ「びわ湖」と向き合い始めたのでしょうか。そして、1,000年以上もの間、どんな暮らしをしていたのでしょうか。その具体的な様子の大部分は、今もまだ謎に包まれています。是非現地を訪れて、当時の生活と彼らのびわ湖への思いを、ご自身で感じていただければ、と思います。
おすすめpoint
石山貝塚は、石山寺門前の、現在は公営駐車場として利用されている辺りの地下に、今もその大部分がのこされています。石山寺に参詣しつつ、その地でおおよそ8,000年前から営まれてきた人々の暮らしと、それを支えてきたびわ湖とのつながりに思いを馳せていただければと思います。石山観光協会では、石山貝塚についての展示も行なっています。また、京阪石山坂本線の石山寺駅から、石山寺へ向かう途中、放水路に架けられた橋を渡った右手、少し高く盛り上がった歩道の下には、第89・90回で紹介した蛍谷貝塚が残されています。その右手の茂みの中には、「蛍谷貝塚」と記された白い標柱がひっそりと立てられています。あわせて是非お立ち寄りください。
アクセス
【公共交通機関】京阪石山坂本線「石山寺駅」下車、徒歩15分
【自家用車】京滋バイパス石山ICから約5分
より大きな地図で 新近江名所図絵 第1回~第50回 を表示
参考文献
滋賀県立安土城考古博物館2012『【人】【自然】【祈り】共生の原点を探る―縄文人が語るもの―』
平安学園考古学クラブ編1956『石山貝塚』
(鈴木康二)