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新近江名所図会

新近江名所圖會 第394回 義を尽くした先祖への想い―天保義民之碑―(湖南市三雲)

湖南市

 旧東海道や旧中山道といった古い街道を歩いていますと、必ずしも道沿いではありませんが、史跡に出会うことが多くあります。今回紹介するのは、そんな史跡のうちの1つです。

 以前に紹介したことがある、湖南市三雲にある旧東海道横田の渡し跡にあった常夜燈の近くに、「天保義民之碑(てんぽうぎみんのひ)」というものがありました。天保義民とは、江戸時代後期の天保年間(1831~1845)に各地で起きた百姓一揆で、犠牲になった人々のことです。近江では、天保13年(1842)に野洲・栗太・甲賀三郡で、飢饉に苦しむ百姓が年貢増徴を防ぐために一揆を起こし、結果的に一揆は成功したものの、参加した百姓らは過酷な拷問を受けました。とくに中心となった各村の庄屋など11人は、翌年に罪人として江戸送りとなり、結果的に全員がその年のうちに死亡したそうです。

写真1 天保義民之碑

 これら一揆の犠牲となった人々を悼み、また江戸送りとなった人々を満足に埋葬もできなかったことから、明治元年(1868)にその罪が大赦されたことを契機として、明治31年(1898)にこの「天保義民之碑」が建立されました。実に半世紀以上を経て、ようやく弔う場所ができたのです。

 「天保義民之碑」は、天保義民の丘と名付けられた丘陵に平坦面を造成して建てられていますが、もともとこの丘陵は伝芳山といいます。碑の構造は、石垣の上に基壇・台石が乗り、その上に碑の本体である直方体が乗ります(写真1)。この直方体は上に行くほど細くなっていて、頂部は四角錐状に尖っているので、中近東のオベリスクを模していると推測されます。全長は10mを超え、本体正面に「天保義民之碑」と彫られています。向かって右側面には、「明治三十一年戊戌五月建」と竣工した年月が書かれています。戊戌(ぼじゅつ)とは、明治31年を十干十二支で表したものです。

写真2 左側面に彫られた建立の経緯

 向かって左側面には、「義民之寃既白矣甲賀郡有志者建一大碑/永傳遺芳其事詳載川田博士文中/勅選議員錦雞衹候正四位勲三等巖谷修書」と、3行にわたって彫られています(写真2)。この文章の意味するところは、「(天保)義民の濡れ衣は潔白となったことから、甲賀郡の有志でこの巨大な碑を建てることとした/(その目的は義民の)遺芳(=名誉)を後世に長く傳(伝の旧字体)えるためだが、そのことは川田博士が書いた書物に詳しく記されている/(正面の「天保義民之碑」の文字は)勅選(貴族院)議員で錦雞衹候でもある正四位勲三等の巖谷修の筆による」といったところでしょうか。「永傳遺芳」は、地名の伝(傳)芳山にかけているようです。

◆おすすめポイント

 天保義民の本来の意義からはそれるのですが、私が興味を持ったのは、この碑が建立された経緯です。まず、表面の文字を書いた巖谷修(いわやしゅう)(1834~1905)〔1〕ですが、現在の甲賀市水口町出身の書家・官僚で、号を一六(いちろく)いいます。肩書がたくさんありますが、「錦雞衹候」は「錦鶏間祗候(きんけいのましこう)」を指し、廃止された元老院の議官を処遇するため、明治23年(1890)に設置された資格です。

「川田博士」は、川田甕江(おうこう、本名剛(つよし)、1830~1896)のことです。備中国(岡山県南西部)浅口郡阿賀崎村の出身で、国立国会図書館のウェブサイト「近代日本人の肖像」によると、「漢学者。父は商人。山田方谷(ほうこく)〔2〕、大橋訥庵(とつあん)〔3〕、藤森弘庵〔4〕らに学ぶ。備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)に招かれ江戸藩邸の督学(とくがく:学事を監督する人)となった。維新後は宮内省に出仕し、明治17(1885)年より東京大学教授を兼ね、21年文学博士。諸陵頭(しょりょうのかみ)、貴族院議員、「古事類苑」編修総裁、東宮侍講、宮中顧問官等を歴任。学問は朱子学を宗(むね)とし、明・清の学にも通じ文章に巧みで、明治の漢文壇において重きをなした。」とあります。「川田博士文中」が何かはわかりませんが、執筆した論文の1つかもしれませんし、あるいは同じ貴族院議員である巖谷修への私信かもしれません。

 また、「天保義民之碑」の建立のいきさつは、『甲西町誌』(甲西町誌編さん委員会1974)に書かれています。天保の百姓一揆から50年を経た明治24年から建立の運動が始まったものの、地価修正問題や日清戦争が起こったためしばらくは進められなかったことや、建立費用に当時の金額で約1,900円かかったことがわかりました。この金額は、現在の価値に換算すると700万円を超える大金であり、それだけ一揆の犠牲者に対して悼む気持ちが大きかったのだと思いました。

写真3 背面の金属プレート

 そして、碑の背面に張り付けられている金属プレートにも注目しました(写真3)。「三河國碧海郡新川町人造石業服部長七/右同町職工長神谷市太郎」とあります。当地の案内板や『甲西町誌』にもこの石碑が「人造石」製であることが書かれていたので、私には耳慣れないこの「人造石」についても調べてみました。それは自然石を破砕してセメントや樹脂などで固めた石材のことで、加工が容易なうえに研磨すると表面が美しい光沢をもつそうです。また、ここに書かれる「服部長七」はまさにその人造石工法を考え出した人であり、三河産の風化した花崗岩からなる真砂土(まさつち)と石灰を混ぜる「長七たたき」は、広く使われていました。「天保義民之碑」は、永く風雨にさらされて黒ずんではいるものの、今でも毅然として立っていて、当時の最新技術を用いていることがわかりました。

 なお、入り口の説明板には、「天保義民之碑」は耐震補強がされていないため、見学は可能だが地震の際などには注意が必要、と書かれていました

〔1〕明治三筆の一人。童話作家、児童文学者。巖谷小波(さざなみ)の父。

〔2〕幕末期の儒家・陽明学者

〔3〕江戸後期の儒学者、尊王論者

〔4〕江戸後期の儒学者、勤王家

写真4 新海道石標

◆周辺のおすすめスポット

 すぐ近くには旧東海道横田の渡し跡があります。また天保義民の丘のふもとには、「新海道」と彫られた明治21年建立の石標があります(写真4)。三雲~柘植(つげ)の間を結ぶいわゆる杣(そま)街道は旧東海道の別街道として使われていましたが、明治期の道路整備の際に「新海道」と名付けられました。「新街道」ではなく「新海道」なのは、東海道を意識してのようです。なお、この石標は元の場所から移設されています。

 そのほか、少し離れますが、旧東海道を石部宿側に3kmほど行くと、一揆の首謀者の一人である針の文五郎の顕彰碑があります。また近くではありませんが、野洲郡にも明治28年建立の天保義民碑があり(新近江名所図会第331回)、揮毫(きごう)は今回紹介したものと同じく巌谷修によります。これらもあわせて訪れ、当時を考えるきっかけにしてみてはいかがでしょうか。

アクセス

【公共交通機関】JR草津線三雲駅下車。徒歩約10分

【自家用車】名神高速道路栗東ICから約30分、駐車場無し

(小島孝修)

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