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新近江名所図会

新近江名所圖會 第397回 井伊家にとっての佐和山を考える―彦根市井伊神社―

彦根市
写真1 本殿と覆屋

 彦根市北方に位置する佐和山は豊臣政権の五奉行の一人、石田三成の居城であった佐和山城が所在した場所として広く知られています。平成30年度より昨年度まで佐和山城東麓の城下町推定地の発掘調査を担当していたのですが、遺跡への理解を深めるため、時間があるときを見つけて佐和山周辺の史跡などを訪れていました。今回はその中の一つである、井伊神社についてご紹介したいと思います。

 井伊神社は佐和山の西麓、井伊家の菩提寺である龍潭寺のすぐ北側に位置します。天保13年(1842)、14代藩主直亮(なおあき)が井伊家の祖である井伊共保(ともやす)の七百五十回忌にあたり、龍潭寺の参道脇に八幡宮を建立したのが始まりとされています。現存する社殿(写真1)は弘化2年(1845)に造営されました。

写真2 鳥居にみられる弘化二年の銘

 境内のいたるところに、この時の造営事業に伴って造られた石灯籠が見受けられ、鳥居(写真2)もこの時に建てられたことがわかります。石灯籠には井伊家家紋である橘紋や井桁紋があしらわれているのが観察できます(写真3)。

 なお、井伊神社と呼称するようになったのは、明治2年(1869)、神仏分離により隣接する龍潭寺から分かれてからのことです。また、昭和13年(1938)には近くに所在した佐和山神社も井伊神社に合祀されています。この佐和山神社も13代藩主直中(なおなか)が藩祖である直政(なおまさ)と2代藩主直孝(なおたか)を祀るため、井伊家墓所のある清凉寺に護国殿を建設したのが始まりとされています。

写真3 石灯籠にあしらわれた橘紋

おすすめポイント

 彦根市指定文化財である社殿は本殿と拝殿が相の間(あいのま)で結ばれる権現造(ごんげんづくり)と呼ばれる形式です。蟇股(かえるまた)や向拝(写真4)などは極彩色で彩られ、内部の天井板にも様々な草花がきらびやかに描かれています。建立された時期は新しめではありますが、江戸時代後期の高い技術をうかがうことができ、大名家による藩祖や始祖の顕彰のあり方を考える上で貴重な建造物だと言えます。この社殿は風化による痛みが激しいため、覆い屋がかけられており、普段は中を拝観することはできませんが、年に2回春と秋に特別公開が行われていますので、私も一度、拝観を希望してみたいと思います。

 佐和山西麓には今回紹介した井伊神社のほかに、井伊家の菩提寺である龍潭寺、清凉寺(せいりょうじ)、そして、かつては佐和山神社といったように井伊家ゆかりの寺社仏閣が林立しています。関ヶ原の合戦後、最初に井伊直政が居城としたのは、佐和山城であり、歴代藩主が抱いていた当地への愛着や思い入れは想像に難くありません。それに加えて、菩提寺や始祖を顕彰・崇拝する目的で建立された神社が数多く所在することを見ると、佐和山西麓は井伊家にとって、ある種、聖地のような場所であったとも言えるのではないでしょうか。

写真4 向背彫刻

周辺のおすすめ情報

 時間があれば佐和山城を散策してみてはいかがでしょうか。関ヶ原の合戦後、石垣などの部材は持ち出されたとされますが、石垣や土塁の痕跡は見ることができます。(新近江名所圖会第38回)

(山口誠司)

アクセス

JR琵琶湖線彦根駅より徒歩約22分

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