記事を探す

新近江名所図会

新近江名所圖會 第385回 黒金門跡―特別史跡安土城跡―

近江八幡市

安土城跡は織田信長が勢力を全国に拡大しようと目論み、その拠点として築いた城です。歴史上の人物として一番人気を誇る信長のことですから、彼の造った城を見に訪れる方はあとを絶ちません。しかし残念ながら、安土城の天主は完成から三年の後に焼失してしまい、ご存じのとおりいまでは石垣を残すだけです。このことがご期待に沿わなかったのか、がっかりされる方もいらっしゃるとか。

安土城 黒金門跡
安土城 黒金門跡

天守閣は石垣とともに、日本の城を象徴する構造物です。安土城跡にはそのうち一つがなくなってしまっているので無理もない、とは思います。しかしそれでは、「信長LOVE」な方々の愛情の底が知れるというもの。残された石垣にも、なみなみならぬ信長の心意気が読み取れます。ここではその一例として黒金門跡を紹介します。
黒金門は安土山のふもとから大手道を登って山頂近くに達するところ、安土城中枢部への入口にあたるところにあります。いわば本丸・天守台へ入るための第一関門です。「黒金門(くろがねもん)」とは扉に黒金(鉄)を貼った門扉のことですが、門扉を含めて関門の仕組み全体を「黒金門」と呼んでいます。つまり、出入りするための単なる門扉ではなく、石垣を組み合わせて造った城特有の「虎口(こぐち)」という仕組み全体を、黒金門と呼んでいます。

◆おすすめPoint
黒金門の通路は二度直角に折れ曲がってこれを通過しますが、その間は両側に堅牢な石垣が積まれています。(図1)この石垣、じつは石塁と呼ばれる幅の広い土手になっています。細長い土手(土塁)(どるい)の両側面に石垣を積んでいるので「石塁」と呼ばれます。この石塁のうえにはおそらく白壁の櫓(やぐら)が建ち、その壁には「狭間(さま)」と呼ばれる丸や三角の穴があいていたかもしれません。つまり、この門を通り過ぎる人は両側から織田軍の矢や鉄砲に狙われる仕組みになっているのです。
黒金門の内部で二度折れ曲がるのは、攻撃をかけてくる兵隊の突進スピードを挫くため。ここで突撃速度をゆるめざるをえなくなった兵隊は左右両側から攻撃を受けることになる、という恐ろしげな仕組みになっています。
このことに気づかれたなら、黒金門から本丸にいたるまでの動線では、常に横からヤリ先を突き付けられるような緊張感が漂っていることにも気づかれるでしょう。この部分は安土城跡のなかでもっとも防御の固い仕組みが連続しているところです。

安土城跡 黒金門平面図
図1 安土城跡 黒金門平面図

安土城に始まったこの虎口の仕組みは、江戸時代になると高石垣で囲まれた四角いスペース、「桝形(ますがた)虎口」(虎口の形態としては最も発達した形式)と呼ばれる仕組みに発展していきます。

◆周辺のおすすめ情報
〔天主台〕
ここまで来たら、天主台を訪れないわけにいきません。天主台の中央には「穴蔵」と呼ばれている方形の地下空間が造られています。天守台からは信長も見たはずの風景を眺めることができますが、残念ながら北方の大中の湖(だいなかのこ)は干拓されてしまい、湖の広がる当時の景色とは異なっています。
〔摠見寺(そうけんじ)跡〕
黒金門から下り、登城してきたルートから分かれて西に進むと摠見寺跡に到着します。復元大手道の右手に見えた摠見寺は、ここから幕末期に移転したもの。こちらが安土築城時に摠見寺が創建された場所です。三重塔と仁王門は築城当時の姿をとどめています。城内に寺院が創建されているのはかなり異色です。
〔安土城考古博物館・安土城天主 信長の館〕
安土城跡をご覧になったら、ぜひこちらの施設にも足を運んでください。信長の館では安土城天主の姿を、安土城考古博物館では城郭史と安土城跡の発掘成果を解説しています。
(伊庭功)

◆アクセス
【自家用車】名神高速道路:八日市I.Cから約30分。国道8号線:近江八幡市西生来交差点から約10分。県道2号線:安土城址前すぐ
【公共交通機関】JR琵琶湖線安土駅から徒歩25分

Page Top