新近江名所図会
新近江名所圖會 第389回 安土城より古い石垣―観音寺城跡 伝御屋形の石垣―
戦国時代、京都を追われた足利将軍家を保護するなど中央政界に確固たる地位を築いた近江守護の六角定頼(さだより)が天文21年(1552)に没すると、嫡男である義賢(よしかた)が家督を継ぎます。義賢もまた、父に引き続き中央政界で確固たる地位を築きますが、永禄元年(1558)頃、にわかに出家し抜関斎承禎(ばっかんさいじょうてい)と号し、家督を嫡男の義弼(よしすけ)に譲ります。
応仁の乱までは、六角氏も他の有力大名とともに将軍を支えて在京しますが、乱後は近江に在国し、戦乱に備えるため、また政治を行う守護所として、観音寺山に城郭を築き、山麓に城下町(石寺)を整備します。
観音寺城は観音寺山の中腹から山頂にかけて、もとからある観音寺の僧房なども利用しながら築かれます。城の中心は伝池田丸、伝平井丸、伝本丸と呼称されている曲輪(くるわ)です。南北に連なる三つの曲輪は六角氏の常御殿や会所、対面所などと考えられますが、城内の様子は史料や記録類からは断片的にしか知ることができません。
連歌(れんが)師の谷宗牧(たにそうぼく)は、天文13年(1544)に観音寺城を訪れますが、その際に療養中の定頼が宗牧のために眺望がすばらしい二階建て御殿の座敷で酒宴を開いてくれたことを書き記しています。
永禄3年(1560)の承禎自筆書状には、承禎と家督を譲った義弼との関係が悪化していることが記されています。
永禄11年(1568)9月13日、京都に向かって進軍する織田信長は観音寺城を攻撃しますが、『信長公記』には観音寺城のことを「六角承禎が館観音寺山」と記しています。
承禎と義弼の関係悪化は政治路線の違いに起因すると考えられますが、父子が離れて暮らすことによるコミュニケーション不足も一因ではないでしょうか。
観音寺山の東麓には伝御屋形跡と呼称される場所があります。伝御屋形跡は、東西約60m、南北約65mの規模で、前面には約6mの高さの石垣が築かれています。
山上の曲輪が家督を譲った承禎の館であるならば、山麓の伝御屋形跡は義弼の館である可能性もあります。
観音寺城の主要曲輪を見学する際に、伝御屋形跡から大手道の可能性が指摘される表坂道と呼称される尾根伝いに上ると、大石垣、伝池田丸、伝平井丸、伝本丸へと続くルートを辿ることができます。伝御屋形跡から伝本丸までの所要時間は90分程です。
観音寺城の見学ルートはいくつもありますが、伝御屋形跡から伝本丸を辿るルートが最も観音寺城の栄枯盛衰を体感できると思います。
なお、伝池田丸、伝平井丸、伝本丸の発掘調査で出土した資料は、観音寺山西麓の滋賀県立安土城考古博物館で展示されていますので、伝本丸の見学後は桑實寺(くわのみでら)を経由するルートで下山するのがお勧めです。
◆おすすめポイント
安土城以前に積まれた石垣をみることができます。弘治2年(1556)六角義賢は金剛輪寺(愛荘町)に石垣普請を命じていますが、城のどの箇所を命じたのかまではわかりません。伝御屋形の石垣の普請であった可能性もあります。
織田信長は天正4年(1576)から総石垣の安土城を築きますが、安土周辺にはそれを可能にする石工たちがいたことを実感できます。
◆周辺のおすすめ情報
〔観音正寺〕
観音寺山中腹に位置する天台宗寺院。西国三十三所の三十二番札所。寺伝は聖徳太子が創建したとする。
〔桑實寺〕
観音寺山中腹に位置する天台宗寺院。室町時代前期に創建された本堂は重要文化財。京都を追われた第12代将軍足利義晴が六角定頼の庇護を受けて滞在した。
〔滋賀県立安土城考古博物館〕
観音寺城出土資料のほか、安土城出土の資料など戦国時代の史資料が充実。
◆アクセス
[登城起点の石寺(いしでら)へのアクセス]
【自家用車】名神高速道路:八日市I.Cから約25分。国道8号線:旧中山道との交差点
左折(観音正寺の看板)約1分。「石寺楽市」駐車場に止められます。
【徒歩】JR安土駅から50分。
【公共交通】あかこんバス(市営バス)⑬老蘇(おいそ)・金田(きんだ)コースで近江八幡駅北口から安土駅北口経由、石寺楽市下車。(近江八幡駅から約30分) ※平日のみ運行。一日5便くらいしかないので時間を要確認のこと。
(藤﨑高志)