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新近江名所図会

新近江名所圖會 第364回「おごれる人も久しからず」・・・もう一つの平家終焉の地―野洲市平宗盛公胴塚―

野洲市

寿永4年(1185)3月24日、平氏は、源氏との最後の戦いである壇ノ浦の戦いに敗れ、滅亡しました。戦いの舞台となった壇ノ浦は、平家終焉の地として有名です。

写真1 国道沿いの案内板
写真1 国道沿いの案内板

ところで、この戦いにおいて平氏の総大将だった人物は誰でしょうか?
ご存じない方もいらっしゃることでしょう。正解は平宗盛(たいらのむねもり)です。
平宗盛は平清盛の三男で、母は時子です。内大臣、従一位にまで進み、兄である平重盛(しげもり)の死後は家督を相続して、清盛亡き後は平氏一門を統率して源氏と戦いました。
しかし、一の谷の戦い、屋島の戦いに次々と敗れます。壇ノ浦の戦いでは、海に身を投じましたが、捕らえられ鎌倉に送還されたのち、京都に送り返される途中で斬首されました。元暦2年(1185)6月21日のことです。
このとき、宗盛が斬首されたとされる野洲市大篠原(おおしのはら)にあるのが今回紹介する平宗盛公胴塚です。国道8号線の脇に「平家終焉の地」の案内板が出されており、それに従い進むと胴塚に至ります。〔写真1〕胴塚には石碑が立ち、物悲しい雰囲気が漂っています。〔写真2〕

写真2 平宗盛公胴塚
写真2 平宗盛公胴塚

宗盛は、栄華を極め、まさしく「驕れる者」であった平氏を結果的に滅亡へと向かわせた敗将であるため、『平家物語』では、無能で器量なしとの厳しい評価がなされています。また『源平盛衰記』は時子の実子ではないとの異説さえ載せています。物語においては、兄の重盛や勇将として知られる弟の知盛(とももり)との対比から、そうした役割を与えられた面が濃いことは否めません。したがって、宗盛の実像については不明な部分が多いのです。血統が重視された時代とはいえ、平氏が存亡の危機にあった時期に総大将を任された人物です。私は、きわめて有能な人物だったと想像しています。宗盛は、来年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場し、俳優の小泉孝太郎さんが演じる予定です。宗盛が最期を迎えた野洲市大篠原を訪れ、源平の時代に思いを馳せることで、大河ドラマをより楽しめるかもしれません。ぜひ足を運んでみてください。

おすすめpoint

写真3 首洗い池をイメージした池
写真3 首洗い池をイメージした池

平宗盛公胴塚については、近年、地元住民の有志が「胴塚保存会」を結成し、自治会などと協力して胴塚付近を整備し、命日に近い週末に「しのぶ集い」が営まれています。
胴塚前方の空閑地には、整備の一環として約20年前に工場建設などに伴い大部分が消失した「首洗い池」をイメージした枯山水風の池がつくられています。〔写真3〕小さな池ですが、胴塚保存会の方々の宗盛に対する思いが伝わってきます。

周辺のおすすめ情報
平宗盛公胴塚から国道8号線を彦根方面に約0.9㎞進んだところ、蒲生郡竜王町鏡(かがみ)に鏡神社があります。承安4年(1174)3月3日、鏡(かがみ)の宿(しゅく)で元服した牛若丸は、鏡神社に参拝し、源九郎義経と名乗りを上げ、源氏の再興と武運長久を祈願したとされています。当神社には、このとき牛若丸が烏帽子を掛けたと伝わる松の木があります。松は、明治6年(1873)に台風で折れてしまいましたが、今も幹の部分が保存されています。〔写真4〕

写真4 烏帽子掛けの松
写真4 烏帽子掛けの松

ちなみに、斬首前の宗盛を護送したのは義経でした。義経は、自らが元服した鏡の宿を血で穢すのを避けて、その先の篠原(しのはら)宿で宗盛を処刑したのだと伝えられています。

アクセス
【公共交通機関】JR篠原駅から徒歩25分 または
JR野洲駅南口から近江鉄道湖国バス・野洲アウトレット線「道の駅竜王かがみの里」バス停下車(乗車10分)、バス停から西へ徒歩約10分
【自家用車】名神高速道路竜王I.Cから車で10分

(宮村誠二)

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