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新近江名所図会

新近江名所圖會 第388回 近江商人が残した地震の記録 ―日野町日枝神社の石鳥居―

日野町
写真1 市役所からみた陸前高田市街 令和5年1月29日撮影
写真1 市役所からみた陸前高田市街 令和5年1月29日撮影

東日本大震災から12年の歳月が過ぎようとするなか、被災地域でも甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市に新しい街が再建されるなど、復興が進みつつあります(写真1)。 一方で、地震への関心が薄れることにより、私たちの防災意識の低下も懸念されます。地震多発地帯の日本列島に住む私たちにとって、地震は避けられない災害です。先人が古文書や日記などに残した過去の地震災害の記録や発掘調査などでみつかる噴砂や地割れ等の地震痕跡といった資料をもとに、将来の地震の周期や規模、津波の高さなどを予測する地震研究は、今後の地震被害を軽減する上で、極めて重要な意味をもちます。
今回紹介する地震の記録を残した近江商人の中井光基(みつもと)〔別名:光茂(みつしげ)〕(1802年~1871年)は日野を拠点に、仙台や京都などの店舗で金融業や新田開発、塩や菜種などの輸送販売などの事業を展開し、20万両もの資金を蓄積した中井家の4代目当主です。近江商人らしく巨万の富を築く一方で、仙台を襲った飢饉や大洪水に際しては、被災者のための炊き出しや藩への救済資金の寄付なども行っています。光基が生きた江戸時代後期~明治時代は、地震災害が多発しました。日野町が所在する滋賀県南東部でも、建物や石造物が倒壊するような大きい地震災害が3度(享和2年(1802)・文政2年(1819)・嘉永7年(1854))も確認されています。その中で、中井光基は仙台と近江で起きた2つの地震を記録に残しました。

写真2 日野町日枝神社の石鳥居
写真2 日野町日枝神社の石鳥居

仙台で書かれた日記『四番諸事日下恵(ひかえ)』には、天保6年(1835)6月25日八つ時(13時~15時頃)に発生した宮城県沖地震(マグニチュード7.0程度)の仙台や石巻での被災状況が記されています。仙台店の土蔵の壁が破損し、町の火の見櫓から人が落ちて死んだことや石巻では多くの蔵が壊れるなどの被害状況とともに、被災した石巻の店からの被害状況と修復費用の見積もりの報告に対して、「費用をかけ過ぎないで、半額の金50両で対応するように」との商人らしい指示も残しています。

写真3 馬見岡綿向神社 写真左:本殿 写真奥:嘉永7年の地震で倒れた回廊 写真右:同地震で庇が落ちた神楽殿
写真3 馬見岡綿向神社 写真左:本殿 写真奥:嘉永7年の地震で倒れた回廊 写真右:同地震で庇が落ちた神楽殿

 仙台の地震の20年後、彼は近江を襲った地震被害も記録しています。日野町大窪の日枝神社には、中井光基が再建した石鳥居があり、その背面には、「安永三年 中井光武建為地震損 安政二重孫光茂再建」と刻まれています(写真2)。もとあった鳥居は安永3年(1774)に中井家初代の中井光武(みつたけ)が灯籠や石段、石垣などとともに寄進したものでした。碑文によって、地震で倒壊した鳥居を中井光武のひ孫にあたる中井光茂(光基の別名)が安政2年(1855)に再建したことが判ります。その前年には関東~九州の太平洋岸に甚大な被害をもたらしたマグニチュード8.4クラスの安政東海地震や安政南海地震がありましたが、鳥居倒壊の原因となった地震は、その半年ほど前の嘉永7年(1854)6月15日に起きた伊賀上野地震(マグニチュード7.25程度)と考えられます。地震は伊賀上野地域の木津川断層系を震源とし、三重県~奈良県に大きな被害をもたらしました。滋賀県でも湖東地域・甲賀地域を中心に、500棟以上の家屋の倒壊が記録されています。

写真4 馬見丘綿向神社境内の灯籠・文化9年(1812)建立後、文政2年と嘉永7年の地震で被災し再建された
写真4 馬見丘綿向神社境内の灯籠・文化9年(1812)建立後、文政2年と嘉永7年の地震で被災し再建された

近江商人の崇敬を集める日野町馬見岡綿向(うまみおかわたむき)神社でも、中井光武が寄進した神楽殿の庇が落ちたほか、回廊や手水舎が倒れるなど、大きな被害を受けました。境内の反橋近くにある文政2年(1819)の地震後に再建された2基の灯籠も再び倒壊したようです(写真3・4) 。
また、この近くの太田氏館遺跡の発掘調査では、嘉永7年ないし文政2年の地震によって生じたとみられる噴砂や地割れの痕跡が確認されています(写真5)。

おすすめPoint
高台にある日枝神社からは鈴鹿山地の綿向山を背景に近江商人が創った日野の町が一望にできます。石の鳥居は、美しい田園風景が広がる日野町でも169年前に大きな地震災害があったことを今に伝えています。またこの神社は「ほいのぼり」とよばれる日野地方独特ののぼりが奉納される春祭り「南山王祭」でも知られています。

周辺のおすすめ情報

写真5 太田氏館遺跡で発見された地震痕跡(「ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書ⅩⅧ-5」(H3)より)
写真5 太田氏館遺跡で発見された地震痕跡(「ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書ⅩⅧ-5」(H3)より)

江戸時代、近江商人が出世開運の神として信仰した馬見岡綿向神社(新近江名所圖会第57回)には、県指定文化財の本殿があります。また、中井光武が寄進した拝殿や燈篭、絵馬など、中井家にゆかりのある文化財を多く見ることができます。

アクセス
【公共交通機関】JR琵琶湖線近江八幡駅から近江バス北畑口ゆき50分「大窪西」停下車徒歩5分
または近江鉄道日野駅から近江バス北畑口ゆき「大窪西」下車徒歩5分、もしくは近江鉄道日野駅から徒歩40分
【自家用車】名神高速道路蒲生スマートICから20分

≪参考文献≫
・宇佐美龍夫 『最新版日本被害地震総覧[416]-2001』、財団法人東京大学出版会、2003年
・青柳周一 「日野商人・中井源左衛門光基の旅日記について 東北地方での商業活動と地震の記録」『彦根論叢第395号』、滋賀大学経済学会、2013年
・『近江日野町志』巻下、滋賀県日野町教育会、昭和5年
・『ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書ⅩⅧ-5 五斗井遺跡・太田氏館遺跡・宮ノ後遺跡』 滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会、平成3年
(北原治)

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